第9話 進路

文字数 2,594文字

「先輩にお礼?」
「厳密に言うと、先輩じゃないんだけど…」
 うーん、と花は唸った。ちょっと考えてから、しなくていいんじゃない、お礼なんて、とあっさり言う。
「あたしも会社の先輩にご飯ご馳走になったけど、別にお礼何もしなかったよ? ごちそうさまでしたって言っただけで」
「そういうもの?」
 葵もよく分からなかった。本も貰ったし、食事もご馳走になったんだから、何かお礼をするべきかと思ったが、何をあげたらいいのか分からなかった。
「かっこいいの、その幼なじみのお兄ちゃん」
 花は笑いながら言う。
「かっこいいっていうか…、大人な感じの人かなぁ…」
 いいなぁ、と花はため息をつく。大学時代一番仲のよかった花は昔から年上の男性が好みで、大学生時代も社会人の彼と長く付き合っていた。花はこの春から司法書士事務所に勤め始めており、自身も司法書士の勉強をしているが、ここ最近はすっかりやる気がないらしい。
「うちの事務所なんか、おじいちゃん先生ばっかり。もっと若い人がいる事務所選ぶんだったなぁ」
 ひさしぶりに話す友人は相変わらずだった。口では文句を言っている花もこつこ努力するタイプなので、何だかんだ言っても試験に向けて頑張るのだろう。
 目標が決まっている友人の新生活の様子を聞くのは、嬉しくもあるが複雑な気分だった。そろそろ公務員試験の願書出願が始まるころだ。そろそろ自分も進路決めなければならない。一年後、自分はどうしているのだろう。
「川島先輩は元気?」
「うん。元気、だけど忙しいみたい」
「バイトしながら大学院は大変よね」
「そうなのかな」
「そりゃそうだよー。バイトしながら勉強しなくちゃいけないのってすごいストレスだし。あたしも就職しないで試験勉強だけに集中するのもありだったかな、と思うもん。でも働かなかったら周りと差がつくかんじでそれも辛かったと思うけど。葵だってそうじゃないの?」
「そうだね」
 葵は相槌を打った。花に比べれば自分の勉強はまだまだ必死感が足りないと思った。目標がイマイチ定まらないから、勉強に身が入らないのかも知れない。
 近いうちに、ちゃんと樹に相談しないとな、葵は覚悟を決めて電話を切った。
 浩行へのお礼のことは、もう頭から消えていた。

  図書館の仕事は早番と遅番があり、遅番の日は、仕事が12時からなので午前中は比較的余裕がある。家にいても集中できないので、図書館に行く前にカフェに立ち寄って勉強していくことにした。いつも図書館に行くまでの道に、出来たばかりのシンプルな造りの可愛いカフェがあったので、入ってみたかったのだ。
 カフェに入って、カフェオレを注文し、窓際の席につく。参考書を広げ、テキストを読み込んでいると、不意に自分の座っているテーブルや椅子が見慣れたものであることに気づいた。
 ここのテーブルや椅子は、瑠璃の実家でよく見たものである。瑠璃の家のインテリア会社の家具なのだろう。
 おしゃれで可愛い…
 葵は素直にそう思った。以前、瑠璃は父親はもうほとんど名誉職のようなもので、経営自体は息子に譲っていると言っていたのを思い出した。おそらくこれも浩行の仕事なのだろう。
 素朴なカフェの雰囲気にシンプルな無垢材のテーブルや椅子はよく合っていた。何気ない作りだが、肘の感じや適度に角の取れたテーブルは機能的で使いやすそうだった。きっと浩行は仕事もできるのだろう。そして、その仕事内容は受験勉強をして職場の図書館と家を往復しているだけの自分からは想像ができない。改めて、どうして忙しい浩行が自分を気にかけてくれるのが不思議だった。
「あの」
 偶然前を通った同じ年くらいの女性のウエイトレスに声をかける。
「はい。ご注文ですか?」
「いえ、あの、変なことをお伺いするんですけど…。ここのテーブルとか、椅子って、平岡インテリアさんのですか?」
 葵が言うと、そのウエイトレスの女性は足を止めて、笑顔で答えてくれた。
「はい、そうなんですよ。気づいていただいて嬉しいです。今、ちょうど平岡インテリアさんの方がいらっしゃってますよ」
「え、そうんなんですか」
 葵は反射的にウエイトレスが目線を向けた方向から顔を背けた。確かにビジネスマンらしきスーツ姿の男女数名が何やら話しながら外に出て行くところだった。
「お知り合いの方ですか?」
「いいえ、何でもないんです。ありがとうございます」
 怪訝そうな顔をしたウエイトレスにお礼をいい、ノートに視線を移す。
 幸いなことに、ビジネスマンの集団に浩行はいないようだった。向こうが気づけば、本のお礼を言わなければいけないのは分かっていたが、何となく大人のスーツ姿の集団の前に行くのは気詰まりだった。
 もともと目立つのも好きではなかったし、自身に注目が集まるのも苦手だった。第一、仕事関係者の場に行けば、浩行も困るだろう。
 濃い紺色や黒のスーツ姿の集団は、何やら話しながら外に出て行き、2台の車に分かれて乗るところだった。
 ガラス越しにぼんやり眺めていたら、その中のスーツをしっかり着込んで眼鏡をかけていた華やかではないが綺麗なかんじの女の人が、葵に気付いて、にこやかに会釈をした。カフェのお客だから気を遣っていたのだろうが、とても自然で感じの良い笑顔だった。いかにも仕事のできる控えめだけ意思の強いキャリアウーマンといった感じの姿がかっこよかった。
 ああいうふうにどこか企業に勤めるのも悪くないな、と思う。
 本は好きだけど、図書館だけでなく、出版社や本屋も就職先の候補のひとつにするのもありかも知れない。
 大学生のときは、よく花と、結婚しても子供がいても、ずっと働いていたい、という話をしていた。
 花も長く仕事を続けられるように司法書士の資格が欲しいと言っていた。女性がずっと働くためには、何か資格が必要だよね、と。
 葵は司書の資格はあったが、正規職員になるためには、結局公務員試験に合格しなくてはいけない。書店に勤めると土日は休みではなくなってしまう、でもそれはきっと司書でも変わらないだろう、やっぱり安定した企業に勤めた方が好きな読書に集中できるのだろうか。
 考えれば考えるほど分からなくなった。
 試験に受かれば考えが少しは変わるのかな。
 葵はパソコンからコピーした願書を眺めた。
 やるだけ頑張ってみようかな。
 葵はテキストに向かうため、ボールペンを手に取った。
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