第22話 浩行②

文字数 2,747文字

今朝、珍しく、玲の夢を見た。
 夢ではいつも彼女は、街中で不意に現れる。
 ああ、知ってる街だな、あの角を曲がるとあの建物が見える、と夢の中で認識した途端、目の前を横切ったりする。
 ほぼ病院でした会ったことがないのだから、浩行の記憶の中の玲は、いつも寝巻き姿なのだが、不思議と夢で見る玲は、カジュアルなジーンズにシャツなど、私服姿で現れる。街中に溶け込むような格好で、病気など一度もしたことがないような姿で元気に歩き回っているのだ。
 浩行は街中の玲を夢中で追うが、向こうは決して浩行に気づかない。雑貨屋を覗き、本屋に入り、細い道を何の目的もなく曲がる。
 きっとこうやって、何の目的もなく町歩きをしたかったんだろう。
 あの頃年上だった玲の年齢を越して、もうずいぶん経つ。
 同時高校生だった自分に、残り少ない生を意識しながら生きていた玲に何ができたのだろう。玲の精神はいつも不安定で、浩行に怒鳴ったり、泣いたりすることが多かったが、それすらも今ならどこまでも子供な浩行に対しての思いやりの入った演技だったようにも思える。それくらい浩行は玲の病状についてわかっていなかった。死は想像できないほど遠くにあり、浩行の当時の生活にはリアリティがなかった。思い返せば返すほど、独りよがりで我儘で生意気なガキだったと思う。
 玲にしてやりたくて出来なかったこと。
 あれから大人になり、社会に出て、くだらない競争を繰り返した。その結果、大体のものは手に入れられるくらいになった。
 それでもこの姿を一番に見せたかった玲はもういないのだ。

 浩行は図書館の前で、葵を待っていた。
 クルマのシートの背もたれに体を預け、目を閉じる。
 葵に会うのは、1ヶ月半ぶりだった。
 あのBBQの少し前、大平酒造はかなり危ないという噂は浩行の耳にも届いていた。一度廃業してしまうと再開するのは酒蔵の場合、極端に難しくなる。
 現経営者である葵の父は、いかにも神経質そうな慎重な人物という印象だった。何かの集まりで遠目に見かけた程度だが、正直、可もなく不可もないという曖昧な印象で、随分暗い感じの人だと思った程度だった。
 葵と徐々に距離を詰めていたが、葵の態度は相変わらず他人行儀だった。学生時代の恋人はなかなかの好人物なのだろう。東京に就職できるように地道に準備もしているようだったし、大平酒造の経営状態を考えると悠長に構えている余裕はなさそうだ。
 早く動かなければ、廃業されてしまう。
 可及的速やかに動くべきだったが、彼女の実家の酒蔵の経営状態がよくないと分かってから、浩行は精神的にかなり楽になった。
 本心は、どうとでもなるだろう、という単純な安心感だった。実家の話を出せば葵は簡単に落ちる。浩行はそう踏んでいた。
 汚い手だと思われてもいい。時間をかけるのは正直面倒だったし、落とすまでに心血を注ぐように駆け引きを楽しむ趣味は昔からなかった。浩行の中で恋愛に精神を傾ける価値はとうの昔に暴落しているのだ。

 図書館から葵が出てきた。
 夕暮れの中、足早にこちらに向かってくる。チノパンに淡い色のシャツ、パーカを重ね、スニーカーにトートバッグ姿の彼女が、今朝見た夢の中の玲に重なる。
 本当に似てるな…
 久々に葵を見ると、その類似性に驚く。身体や顔の造形、醸し出す雰囲気が、まるで玲のエッセンスを凝縮したように現実世界に現れ、夢と現実の境目が分からなくなる。
 どうしても欲しかった。
 一度そう思ったら、どんな手段を使ってもよかった。
 金を積んで済むのなら、それに越したことはないのだ。

 車の助手席側の窓から、葵は浩行の顔を覗きこんだ。
「乗って。どこかで食事しながら話そう」
 葵は表情を固くしたまま、するりと助手席に収まった。華奢な肩にストレートの髪が一房落ちる。
「この前と同じ店でいいかな。仕事が詰まってて、昼食べられなかった」
「はい」
 葵は心ここにあらずといった様子だった。思い詰めた表情をして、じっと前を見ている。ここ数日、実家の店の経営状態に思いを巡らせ神経をすり減らしていたのだろう。
 浩行と葵は、以前行ったレストランに行き、以前と同じ奥の角席で向かいあって座った。
 食欲がない、という葵を説き伏せ、サラダとチーズと生ハムの盛り合わせ、パスタ2種類を頼んだ。
 話は食べてからでいいかな、と言った浩行と葵は黙って食事を取った。
 葵も良くない話だと分かっているのか、言葉少なに静かにナイフとフォークを動かしている。
 葵の従順で繊細な雰囲気は、彼女特有の個性だと思う。ストレスに晒されたときにバランスを取ろうと生真面目に努力するその姿に、浩行は居た堪れない気持ちになると同時に、もっといじめたくなるような、不思議な感覚を覚える。それはもっと彼女の感情を揺り動かし、服従させたいという歪んだ庇護欲だった。
 静かな食事が終わり、二人はコーヒーを飲んでいた。
 葵が思い切ったような表情で浩行に尋ねる。
「あの、うちの家のことなんですけど…」
「うん、そうだったね」
「よっぽど、経営…、よくないんですよね…?」
「俺も経営者一族の端くれだから、単刀直入に言うけど、多分このままだと一年もたないと思う」
 葵が息を飲む音が聞こえそうだった。
「そんな状態だったんですか…」
「数年前からそんな話はあったけど、何しろ老舗だったしね。具体的に俺の耳に入ってきたのは、ここ数ヶ月だよ」
「…全然知らなかったです…」
「継がせるつもりがなかったからしょうがないよ。気にすることはない」
「弟は継ぐつもりでいるんです…。大学も農学部志望で…」
「そうなのか」
 浩行はそう言うとしばらく黙った。同じように沈黙した葵を見ながら、意を決したように息を吸って話し始めた。
「葵ちゃん、これはこちらからの提案なんだけど」
「……」
「うちの会社が援助するのはどうかと思ってるんだ」
「…え?」
 葵が驚いたように眼を見開いた。
「まだ君のお父さんにも話してないから言わないで欲しいんだけど、何せ大平酒造はこの辺りを代表する企業だからね。俺もこのまま無くなるのは惜しいと思う。いい技術や人材がいるし、後継者だっているんだからね」
「できるんですか…そんなこと…」
「可能だよ。うちなら」
 浩行はきっぱりと言い切った。
 葵は驚いて二の句がつけなかったが、浩行の申し出が本当なら、これ以上ないくらい嬉しいことだった。浩行の申し出が信じられなかった。
「本当ですか…?」
「業務提携の形になると思うけど、さっきもいったとおり、資金面で何とかすることは出来るよ」
「…なんてお礼を言ったらいいか…」
 葵が言うと、浩行はため息をついて葵の言葉を遮った。
「お礼を言うのは条件を受けてくれてからじゃないと」
「条件……ですか…?」
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