第11話 散歩

文字数 2,277文字

 浩行から指定されたのは丸の内にある一流ホテルのラウンジだった。
 新幹線で帰る葵のことを考え丸の内だったのかもしれないが、いつも浩行の指定する場所は気後する場所ばかりだと葵は思う。
 服装は相変わらずカジュアルだったので、この格好でホテルのラウンジに入られるのか疑問だったが、上品な女性の店員は自然に席に案内してくれる。
 スーツ姿や綺麗で大人な女性ばかりがいる場所で居心地が悪い。しばらく待っていると意外にも浩行はラフな私服で現れた。綺麗なスニーカーとジーンズにカジュアルなジャケット姿で、普段高そうな腕時計が巻かれている腕には、シルバーのチェーンブレスレットがしてあった。髪も洗いざらしのさっぱりした格好で、どこか表情も柔らかかった。完全にオフモードなのだろうが、東京でしかもこんなカジュアルな姿で現れると、別人のようだったが、背が高い浩行は高級なラウンジの中でも一際目立っている。
「ごめん、わざわざ来てもらって」
「大丈夫です」
 浩行は紙袋に入った本を2冊差し出した。中身を確認する。アメリカの実業家の書いたビジネス書籍と、あともう一冊は宇沢弘文の新書だった。経済学部を出たわけではない葵にはどちらも馴染みのないものだった。
 
「延滞にならなくてよかったよ」
「延滞しても罰金とかはないので、延滞しちゃう人が多いんです。ちゃんと期間内に返して下さってありがとうございます」
 葵は本のお礼にバーニーズニューヨークで買ったハンカチを浩行に渡した。淡いブルーのハンカチにHの縫い取りがしてある。ネットで調べて、30代の男性に相応しそうで値段も手頃なものを探して、ここに来る前に買ったのだ。
 浩行は思いがけないプレゼントに喜んでくれたようだった。ありがとう、遠慮なく使わせてもらうよ、と言われ、葵は一応お返しができたことに安心した。
「勉強で忙しいんだろう。今日はご馳走するよ」
 浩行はそう言って通りすがりのウェイターを呼び止めて、コーヒーを注文した。
 囁くような話し声とカップとソーサーがぶつかる音、賑やかな雰囲気で溢れるラウンジだったが、葵は何だかとても疲れていた。これからまた浩行に、美味しいけれど、身分不相応な食事をご馳走になって、緊張した時間を過ごすのがひどく億劫だった。樹とした先程のやりとりが効いているのか、誰とも話したくなかった。
「ちょっと疲れてるみたいだな」
「何だか緊張しちゃって」
 浩行はゆっくり笑った。
「そうだよなぁ。こんなとこ、緊張するよなぁ」
「すみません…」
「これ飲んだら出ようか」
 浩行はカップを持ち上げて微笑んだ。

 ホテルを出て、丸の内近辺を散歩した。
 賑な商業施設のエリアを抜けると、思いの外人が少なくて歩きやすい。皇居の外堀を眺めながら、浩行は寛いだ様子だった。ジャケットを脱いで、白の大きめのTシャツ姿で歩く姿は、普段のスーツ姿からは想像できないほど自然体に見えた。
「気持ちいいなぁ」
 伸びをしながら浩行が言う。広い道路の街路樹の下を、適度な距離を取って二人は歩いていた。
 そう言えば、樹以外の男性とこうして並んで歩くこと自体、珍しいことだった。
「いい天気ですね」
「東京にいても仕事ばっかだからなぁ」
 話しながら、普段とは違う様子の浩行に戸惑ってしまう。葵は自分が緊張して、それと同時に胸が高鳴っているのが抑えられなかった。いろいろな理由をつけて自分を気にかけてくれる浩行に、何かを相談したりもっと深い話を聞いてもらいたい気持ちもあった。でも、それと同時に、大学を出たばかりの、社会経験もない子供の自分に、浩行が気を使ってくれるのは、妹の友人であるのが第一の理由だったし、その地域ではそこそこ有名な長く商売を営んでいる旧家の娘であり、礼を尽くしてくれているからだろうという予想もちゃんとできていた。
「あの、浩行さん」
「ん?」
「あの、こんなふうに、気を遣って貰わなくても、その、なんて言うか…」
「どうしたの」
 少し前を歩いていた浩行は、不思議そうな近づいてきた。
「いろいろ、ご馳走してもらったり、本を頂いたり…、そういうの、瑠璃ちゃんの友達だからしてくれるんだと思うんですが、あたし、いろいろしてくださってもお返しも出来ませんし…」
 浩行に真っすぐに見つめられて、緊張する。本質を射抜くような怪訝そうな表情だった。
「…迷惑ってこと?」
「…迷惑というか…、分からないんです…。あたし、ただの図書館の臨時職員ですし、あの父にお会いしたいなら、こんなこもしなくてもあたしからお話しますし」
「そんなつもりじゃないけど」
「……」
「迷惑なら辞めるよ」
「……」
「何となく似てるのかもな、葵ちゃんは俺と。だから気にかけるのかも」
「似てる…?」
 予想外の返答で葵は面食らう。
「思慮深いっていうのかな。うちの妹と違って、慎重だし。あまり自分の感情を出さなくて、情緒は安定してるけど、本質的な部分で理性的なところとか」
「…あたし、そんなんじゃないです…、瑠璃ちゃんみたいに行動的なわけじゃないですし…」
「そうかな、俺にはすごく客観的な視点を持ってるみたいに見えるけど」
「…そんなことないです…。将来の仕事もまだ決められてないですし」
 何だ、そんなこと、と浩行は笑った。俺だってそうだったよ、と。
「まぁ、年上のお節介はありがたく貰っとくもんだよ。別に代わりに何かして欲しいわけじゃないから」
「はい…」
「今日はそのまま帰るんだろう。新幹線に乗る前に、駅で何か食べよう」
 隣に並んだ浩行がそっと葵の背中を押す。
 新緑の街路樹を抜けて、二人は東京駅へと向かった。

 
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