第15話 依頼

文字数 3,104文字

 警戒心が強くて、なかなか打ち解けないタイプだろうと感じていたが、葵は明らかに浩行と距離をとっていた。
 これ以上浩行と親しくならないように意識しているのが浩行には手に取るように分かる。
 何度か会って葵のパーソナルスペースに踏みこんでいるうちに、自分を男性として意識しているということなのだろうから悪いことではない、と浩行はむしろ好条件に受け取っていた。
 とりあえず、自分を恋愛対象として見てもらわなければ話にならない。いつまでも優しいお兄さん、では何も始まらないのだ。
 そういう意味では、葵にとっては災難だったろうが、この前の付き纏いの事件はいいきっかけだった。

 浩行は葵を家まで送る途中、遅くまで営業しているカフェに誘った。
「あんまり遅くならないようにするから」
 葵は一瞬警戒心を顕にしたが、大丈夫です、と言って素直にカフェに入った。
 仕事柄、交渉相手の性格分析をするのは、もうほとんど癖みたいなものだった。
 慎重で、粘り強い。人の感情に寄り添うのが得意で、周りの人間との関係性を重視する傾向がある。数度会っているうちに、浩行は葵をそう分析していた。そしてそれは概ね当たっているはずだった。
 彼女の人のよさにつけ込んでいるのは、分かっている。
 だが、戦略的に何かを手に入れたいと思ったら、相手の性格は最大限利用しなくては、と思っている。
 
 浩行は葵の態度を考慮して、プライベートな話よりも仕事の話をした。
 東京で行われる予定の大きなイベントについて。自社の家具を中心に、都会の実用的な暮らしをする忙しいビジネスマン家庭に少し上質で丁寧な日常使いの家具を提供する。家具のレイアウトや照明、小物について。
 葵は頷きながら、ときには質問を挟んで真剣に聞いていた。葵はとてもよく人の話を聞く。事実の後ろにある背景を想像しようとするので、たまに呟く意見が適切で、聞くのが面白い。
 顔立ちや雰囲気は亡くなった玲にとても似ているが、玲よりもはるかに客観的で俯瞰した見方をする。葵は、病気で自身の身体が思い通りにならず、いつもフラストレーションを抱えて感情を表していた玲よりも、性格的にはずっと内向的な印象を受けた。彼女の家柄がそうさせているのかもしれないが、一般家庭の子よりずっと厳しく躾けられている印象だった。そのせいなのか慎重でいてどこか自信なさげに見える。模範的な行動を常に意識しているような、常識の枠を超えて失敗してしまうことを過剰に恐れているような。華奢な身体と儚げな雰囲気も手伝って、葵のその内向的な態度は、ある種の男性の庇護欲を充分に刺激することを浩行は経験上知っていた。
 これでは、変質者につけ込まれるのも無理はないと思われた。
「あれから、変な男には付けられてない?」
「大丈夫です。職場の人も協力してくれてますし」
「ならいいけど、気をつけて。いつでも駆けつけられるわけじゃないから」
「この前はありがとうございました。お忙しいのに、わざわざ来てもらって…」
「…葵ちゃん、お返ししてもらう訳じゃないけど、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
 薄暗い照明の下、浩行がコーヒーを飲みながら言った。葵の表情がさっと曇るのがわかる。
 葵のとてもわかりやすい態度に、浩行は一瞬過剰に欲望を刺激された。普段仕事でも腹の探り合いのような会話をしているせいだろうか。自分は警戒心が強い方だと自覚していたが、彼女の無防備な表情に、普段使っていない筋肉を不意に掴まれたようだった。葵の一瞬困った表情に、もっと虐めたくなるような、困らせてやりたくなるような感情になったと同時に、自分の感情を隠そうとしない葵に無性に安心感を抱く。
「…頼みたいこと、ですか…?」
 浩行は、ゆっくり言い聞かせるように話した。
「近々、若手の経営者とその家族でBBQをする予定があるんだ。昔からの友達たちとその家族なんだけど、ひとりで行くのが億劫でさ。あんま大人数じゃないし、気楽な感じだから付き合ってくれないかな」
「あたしが…ですか…?」
「みんな忙しくてなかなか集まれないから、毎年の恒例行事なっててね。経営者だけじゃなくてその家族もいるから、退屈しないと思うよ」
 コーヒーカップを離した口元が微かに笑っている。
「場違いじゃないでしょうか…、あたし…」
「大丈夫大丈夫。働いてる女の人もいるから、人生経験だと思っていろいろ話を聞いてみるといいよ」
 葵は少し逡巡した様子を見せたが、
「…じゃあ」
 と頷いた。
「よかった。ありがとう。日程が決まったら連絡するよ。試験はまだ先だっけ」
「いくつか受ける予定ですけど、本命は秋の予定です」
「じゃあ勉強の邪魔にならない程度に」
「……分かりました」

 これで最後にしよう、と葵は思う。
 浩行さんと会うのはこれが最後にする。誰に聞かれたわけでもないのに、そう決意していた。
 恋人の有無を聞かれたわけでも、デートに誘われたわけでもないが、これ以上浩行と個人的に会うのはやめよう。
 葵は携帯電話を握りしめながらため息をつく。
 最近、樹と連絡が取れていなかった。
 バイトと課題で忙しく、珍しく体調を崩したと言っていたから、葵の方から連絡するのを控えていたが、一週間ほど電話もラインもしていなかった。体調が戻って元気になったら、樹の方から連絡してくれると思っていたのだ。
 樹の声が聞きたかった。
 恋愛がうまくいかないと、それ以外の行動が反映されてしまうと考えるのはどうしてだろう。
 樹には何も言っていないのだから分かるはずもないのに、浩行に会って意識が向いたり心が揺れたりしている様が、結果的に悪い事象を生み出している、こんなふうに考えるクセが葵には昔からあった。因果応報というか、自身のちょっとした行いが悪い結果につながっても不思議ではない、と考えてしまう。
 いい人でありたい。
 葵は切実にそう思う。樹に対しても誠実でありたいと望んでいるし、将来に向かってまっすぐに突き進む姿勢にも釣り合うような人間でありたい、と思う。
 でもそれと同時に浩行にも失礼な態度をとりたくないと思っていた。あれだけ自分のことを気にかけてくれているのだから、礼を尽くしたいと思う。浩行くらいの会社の要職についている人間だったら、父に仕事上会う場面もあるかも知れない。そのときに父に恥ずかしい思いはさせたくないと思っていた。
 どこで誰が見てるか分からんからね。葵ちゃん、いつも人様の目があると思って、ちゃんとせんといけんよ。
 不意に一緒に暮らした祖母の声が耳に響く。
 優しい祖母は忙しい両親に変わっていつも葵たち兄弟の面倒を見てくれていた。
 酒蔵を営んでいた祖父が早くに亡くなると、事業を父に譲り、現在は高齢者向けのマンションで暮らしている。祖母のところへは東京から変えてきたとき、顔を出したきりだった。
 どこで誰が見ているか分からない……
 こういうことがこれ以上続くのなら、自分には荷が重すぎると思っている。同年代の男の子にはない、浩行の機知に富んだ話や聞き心地のいい低い声、直線的なスーツのラインに、動揺している自分もいた。
 同時に自分と浩行が周りにどういう風に見られているのかも、常に気になっていた。
 結局、自分の心が弱くてふらふらしているからいけないんだろう。
 そう葵は結論づけていた。
 素敵な人だと思うけど、自分が望む自分は、付き合っている人がいながら、誰かになびくような人間ではなかったはずだ。
 葵は樹や浩行に誠実でありたいと思うと同時に、自分自身に誠実でありたかった。
 あと一回だけ。
 あと一回だけ、浩行さんとBBQに行ったら、これで最後にしよう。
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