第21話 橘

文字数 1,980文字

 図書館は女の職場だ。
 もともと司書の資格を取るのは女性が多いし、司書は非正規の臨時職員が多いので、どうしても世帯主になりづらい女性が多くなってしまう。
 だから図書館の仕事は、女性の社会で生きることで、そこでどのような立ち位置で働くかで人間関係が大きく左右される。
 橘から見て、葵のようなタイプは、こういう職場では危ないな、と思っていた。
 市役所の図書館は何も本が好きな人ばかりではない。特に会計年度任用職員と言われる非正規の職員には、葵と違いたまたま配属された場所が図書館だった、という人間もいるし、あからさまに結婚までの腰掛けにしている若い女の子も少なくない。基本的に図書館は力しごとが多く、本を本棚に並べるだけの地味な仕事がその大半なのだ。本が好きかどうかに関係なく、手を抜くことを覚えていく職員は多い。
 いわゆる、葵はいい子なのだ。そして、サボることを覚えた大多数の女の集団の中で、顔の造作の美しい若いいい子には特に厳しい。
「この前、大平さんを迎えに来てた人って、平岡さんだよね。平岡インテリアの」
「そうそう。結構年上だったはずだけど、びっくりしたよね」
 カウンターの後ろにある事務室で、若い女の子たちが話しているのが耳に入った。葵はちょうど館内に出ているタイミングだった。
 彼女たちのその言葉の節々に、嫉妬の感情が入り込んでいることに気付くのは、やはり橘も女だったからだ。
 橘は浩行より2歳年上となる。浩行は知らないだろうが、橘は浩行のことを知っていた。
 子供の頃から目立つ子だったし、橘が図書委員をしていた小学生の頃に、図書館に来ていた浩行のことを覚えていた。
 いつも周りにたくさんの子分を従えた、女の子のもよくもてる、生意気で冷ややかな視線をした整った顔立ちをした子供だった。
 あの平岡浩行が大平さんと…、か。
 似合わない、と橘は思っていた。実際に付き合っているのかは知らなかったが、あの浩行と付き合うには、葵はいい子すぎるし、世間知らずすぎるのだ。
 イケメンの実業家と付き合うスキルも野心も葵にあるとは思えなかった。
 ああいう男には、お互い利害関係で成り立つような、プライドの高い女が順当ではないか、と橘は人ごとながら思ってしまうのだ。
「そんなに悪い奴じゃないけどな。たしかにちょっと取っ付きにくい感じだけど」
 同じ図書館に勤め、何となく付き合いはじめた小林にその話をすると、小学校が一緒だったという彼はあっさり否定していた。何度か、葵を迎えにくる浩行を見かけた、という話をした後だった。
「でも、大平さん、本当に浩行と付き合ってるなら、試験どうするつもりなんだろうな。国立国会図書館の一次に受かるなんてすごいよ。ずっと図書館で働きたいって言ってたし、頑張って欲しいよなあ」
 小林は浩行の人間性より、葵の進路を気にかけているようだった。確かに、司書の資格を持つ人間なら、国立国会図書館の正規職員の仕事は夢の職場だと思う。橘も同意見だった。
 それにしても。
 橘は、冷ややかな目をした子供の頃の浩行を思い出していた。
 ああいう男は危ないと思う。
 子供の頃からチヤホヤされ、欲しいものはおおよそ何でも手に入ってきたような、浩行のような男に選ばれるのは、橘からみればとても危険なことのように思えた。
 いいように遊ばれなければいいけど…

「大平さん、新刊の棚戻し、まだ?」
 背中から葵に指示をする年嵩の司書の声がした。
 すいません、と急いで葵が本を載せたカートを押す。
「全く。仕事が遅いんだから」
「図書館に遊びに来てるのじゃないの」
 トゲのある司書たちのヒソヒソ声がする。若い子は面と向かっては言わないが、女性も歳を取ると嫌味も直接口に出すほど強くなる。橘は彼女たちの分かりやすい態度に苦笑してしまう。
 葵が休憩時間に繰り広げられる噂話に参加しないのも、同僚の司書たちが面白くない原因なのだろう。
「大平さん、大丈夫? 手伝うよ」
「ありがとうございます」
 葵はもくもくと新刊を棚に戻している。葵は手を抜かずに、基本に忠実に動くので、確かに仕事は遅くなりがちだ。でも決して手を抜かないし、並べ方も綺麗で分かりやすい。仕事に慣れてしまえば、将来優秀な司書になるのではないのかと橘は評価していた。
 
 19時に図書館が終わると、葵は足早に橘に頭を下げて館内を出て行った。
 付き纏いの事件があってから、シフトの合う日は毎日一緒に帰っていたが、今日は先約があると言っていた。
 館内を出ると、ちょうど向こう側の道路をレクサスが走り去っていくところだった。
 助手席に表情を固くした葵の姿が見える。運転しているのは、スーツ姿の整った顔をした浩行だった。
 同じようにレクサスを目にした他の司書もいたらしい。
 また虐められなければいいけど…
 橘はそこまで考えて、自分も家路へ急いだ。
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