第19話 僕と彼女の関係性

文字数 1,760文字

鍵を事務所に置き忘れてしまったようだ。自宅のマンションに着いて気が付いた。こういう時のためにマンションの一階にある郵便ポストのドアの裏側に部屋の鍵をテープで貼ってある。オートロックが付いていないマンションはこういう時に便利だ。ポストのダイヤルロックを回して開錠し、鍵を取り出した。
このマンションの部屋は一年前から借りている。白井さやか。彼女は僕の三つ年下。僕がよく夕食を食べに通っていた飲食店でアルバイトをしていた。お酒を出す店だったが、僕はお酒が飲めないのでいつも定食だけを食べて帰った。彼女は明るく酔っ払い客にも笑顔で対応していた。しかし、ある日を境に彼女を見かけなくなった。どうしたのだろうと気になっていたが、お客と店員との会話が耳に入り、彼女が学校を卒業し、それを契機にバイトを辞めたことを知った。その後のことは神様が導いてくれたとしか思えない。偶然に丸の内で彼女を見かけたところから僕たちの関係は始まった。そして時を置かずして、二人でこのマンションに住み始めた。
口下手な僕は彼女を満足させられているだろうか。気の利いたジョークで彼女を笑わせることはできない。でも誓って良い。僕は今までの人生で一番彼女のことを思い、愛していた。そんな気持ちは必ず彼女にも伝わっているはずだ。
外は透き通るような青空が広がっているのに、カーテンを閉めたままの部屋は薄暗かった。窓を全開にして、部屋の空気を入れ替えた。
彼女は遠慮なく自分の持ち物を持ち込んできていた。クローゼットを開けると彼女の洋服が占拠している。ハンガーに吊り下げられた服をめくりながら、一つ一つ手に取ってみる。そうそう、これはあのレストランに行ったときに来ていた服だと鮮明に思い出す。
玄関の呼び鈴がなった。こんな時間に誰だろう。モニターを覗くと宅配員の姿が見えた。
「白井さやかさんにお荷物です」
「はい」
「あの……お渡しして大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
受け取りのサインをした。
宅配荷物をテーブルの上に置いて、ガムテープを外すと、中には花柄のマグカップが一つ入っていた。サクラソウ。花言葉は初恋、純潔。彼女らしい選択だ。キッチン棚からティーバッグを取り出して、沸かしたお湯をマグカップに注いだ。
カモミールティーのせいか少し眠くなってきてしまい、ベッドに横になった。布団に微かに香る彼女の匂い。その香りに安心し、瞼を閉じた。
ほんの少しの時間のつもりがすっかり寝入ってしまったようだった。眠気覚ましにテレビを付けると、ニュース番組でストーカー事件の報道が流れていた。
「バカな奴だ。そんなに嫌われてるのに諦められないなんて……哀れな話だ」
テーブルの上のクッキーを頬張りながらテレビを眺めた。
陽が落ちると、入ってくる風も冷たくなってくる。そろそろ出掛けなければいけない時間になってきた。僕はマグカップを軽く洗って水気をふき取ったあと、宅配の箱の中に戻した。いくら仲が良いと言っても、勝手に荷物を開けたとなると気分が良いものではないはずだ。新しいガムテープで丁寧に蓋をした。
洗面所で歯磨きをしながら、背後の洗濯機の中を覗くと、洗う前の衣服が投げ込まれていた。平日働いていると、どうしても洗濯は週末になってしまう。
部屋の鍵を閉め、宅配の荷物を玄関ドアの横にそっと置いた。
僕を乗せたエレベータが一階に着いた。ちょうどその時、彼女が戻ってきたところだった。玄関ホールを歩いて近づいてくる。何という偶然だろう。
僕はついつい視線を斜め下方にそらしてしまう。彼女は僕には気を留めず、まっすぐ歩いてきた。すれ違いざま、ベッドで嗅いだ匂いと同じ香りを感じ、思わず立ち止まり目を閉じた。背後から、彼女の乗ったエレベータのドアが閉じる音が聞こえた。
エレベータが上がっていくのを見送ったあと、「白井」と書いてあるポストのダイヤルロックを開けて、鍵をドアの裏側に戻した。
彼女は僕の存在に気付いていないだろうが、それで良かった。何度か声を掛けようと思ったこともあったが、そのせいで、僕のこの純粋で透き通るような恋愛が終わってしまうリスクは取りたくなかった。
ポケットの中に入っている洗濯機の中から取り出した下着を手の平の上で転がしながら、明日もまた訪れることができる幸せをかみしめた。
       (了)
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