第21話 メビウスの輪

文字数 5,882文字

大学がこの町に移転してきたのは十年ほど前になる。都内からの移転で学生流出が懸念されたが、人文系の学生は減ったものの、理系学生からは却って人気が高くなった。都心の土地の売却資金で立派な最新鋭の研究施設を整えたおかげだった。町と言えるようなものが無かった辺鄙な場所だった。当初は学生がキャンパス内で集中できるというのを無理やり売り文句にしていたほどである。それから十年、大学周辺には小洒落た店もポツポツとでき始めた。海沿いのカフェレストランのエデンもその一つである。
天気の良い土曜日。エデンのテラスで三人は遅めの昼食のあとのコーヒーを飲んでいた。田中和也は大学四年生。理学部を卒業した後、内定している製薬会社に行くか、大学院に進んで進化生物学の研究を続けるか決めかねていた。
レストランには弟の晃によく懐いている猫が居た。飼い猫なのか、野良猫なのか、気ままにうろうろしている。晃は勝手にモナと名付けて呼んでいた。晃が食事を終えると、それを待っていたとばかりに晃の膝の上に飛び乗って、気持ち良さそうに身体を沈めた。
「部屋に居たマリモだけど、兄貴どこかに移動した?」
「俺は何も触ってないよ」
晃は生き物が好きで、和也はてっきり自分と同じく生物学に進むかと思っていたが、工学部を選択し、人工知能を勉強しているらしい。和也と晃は二人でアパートを借りて住んでいる。晃は部屋の水槽でマリモを育てていたが、それが居なくなったらしい。
「噂で聞いたんだけど、時々この周りで生き物が突然居なくなるっていうんだって」
石原玲子は晃のクラスメート。晃は常にクラスで一番の成績を取ってきた天才肌だったが、そんな彼が数学では敵わないと言っている相手だ。
「消えるってどういうこと?」
晃が身を乗り出した。
「神隠しかな。昔から地元ではよくあることらしい。急に姿を消して、居なくなるって」
「マリモとか?」
「そうね。マリモとか、人間とか……」
「人間って、そりゃ、誘拐だろう」
和也はそういう非科学的な話は信じない。
「パラレルワールドに飛んでいってるのかなぁ」
「晃って昔からそういうSFじみた話が好きだな。工学部のくせに」
その時、ガタガタとテーブルの上の食器が音を立てて揺れた。
「地震だ」
揺れは暫らく続いた。週に一度はこうした地震が起きていたので、住人にとっては地面の揺れは慣れっこになっていた。
「これも噂なんだけど、どうもここの土地は古い断層帯の上にあるらしいの」
「東京も地震多かったけど、やっぱりこっちに来て揺れる数は多くなったよね」
「大学も予算ケチったなぁ……」
部屋に帰ってみると、確かに水槽の中のマリモが居なくなっていた。マリモが水に溶けてなくなるということはないだろう。
「お前、窓を開けっぱなしにしてたんじゃないのか?カラスかなんかが来て持っていったんだろう」
几帳面な和也と違って、晃はズボラなところがある。和也がどれだけ口酸っぱくいっても、部屋をなかなか片づけない。和也は考え込むタイプだが、晃は能天気で、性格は真反対。さはさりながらも血を分けた兄弟、小競り合いはあっても、たいていは和也が折れて、狭い空間の共有と秩序が維持されていた。
授業がある平日はカップラーメンで済ますことも多かったが、週末になると息抜きを兼ねて外出した。と言っても、さして行く場所はなく、気持ちの良い海辺で過ごすことが多かった。その日曜日もエデン。晃がチャットで誘うと、二つ返事で玲子もやってきた。
「進化論ってどうも僕はピンと来ないんだよねぇ。何しろ無機物しかなかった地球に有機物生命体が生まれたってところから全く腹落ちしない」
晃は直観で物を言うことが多い。感心することもあったが、晃の容赦ない突っ込みには苛立ちを覚えることもしばしばだった。
「突然変異で環境に適したものだけが生き残ったというのは益々怪しい。かなりの数の突然変異が同時に起きないとそれがメジャーになるということにはならないでしょう。だけど突然変異が起きる確率なんて物凄く小さい。首の長いキリンが生き残ったって言うけど、草は下にも生えてるし。どう考えても無理があるんだよなあ」
和也も心底理解できているわけではない。だから大学院に進んで研究を続けたいという気持ちもあった。しかし晃に自分の専門分野について突っ込まれるのは腹ただしかった。自分だって、晃のやっている機械学習について言いたいことは山ほどあったが、遠慮して介入しないようにしているのだ。
「人間の歴史もそんなに長いってわけじゃないけど、違う種類の人類が出てくるような突然変異は起きてないようね」
「そう、玲子の言うとおり。変異した人間が大勢居て、その人間どうしが交じっていかないと新しい種と言えるほどの潮流にならないでしょう」
「でも、日本人の体格もこの百年くらいで随分変わったきたでしょう。気づかないうちに人間も変わってきているとも言えるんじゃないか?」
「それは食べ物や生活習慣のせいでしょう。生まれてくる子供の特徴は変わってない。キリンの赤ちゃんは生まれたときから首が長い。最近生まれてきた人間の赤ん坊にはエラが付いているのが増えたなんて話は聞かない」
進化論は想像を超えた長い時間軸での話で、しかも検証ができない過去のことの推論だ。突っ込みどころは山ほどあるだろう。進化論にしっかり根拠を見つけていくことが、自分がこの学問を続けることの意義だとも思っていた。
「ところで、いつも晃のところに来ている猫のモナちゃん、今日は居ないわね」
険悪になりかけた雰囲気を察して玲子が話題を変えた。
「そうなんだよ。ちょっと心配してたんだ。事故にでも合ってなければ良いけど」
「まさか、モナちゃんも消えちゃった?」
「玲子さん、ほんとそういう話好きだねぇ」
和也がそう言ったとき、またガタガタと地面が音を立てて揺れ始めた。ここ最近、頻繁に揺れが起きていたが、今回のものは格別に大きかった。建物も大きく揺れて、三人の上に屋根の瓦が雪崩のように落ちてきた。和也の頭に当たり、和也の意識が遠のいていった。
和也が目を覚ますと、隣に晃と玲子も倒れていた。そこは海岸の砂浜の上だった。ズキズキする頭をさすりながら、よろよろと立ち上がった。周りを見渡しても建物らしきものは見当たらない。地震のあと、津波でも来て流されてしまったのだろうか。
周辺を歩いてみたが、人影らしきものは何もなかった。無人島に流されたのか?長く続いている海岸線を見る限り、これが島だとすると相当大きな島に違いなかった。
誰かが助けに来てくれることを期待して、大きな石を運んできて、砂浜にHELPの文字を並べてみた。しかし、上空を飛んでいるのは鳥だけで飛行機が飛んでくる気配はなかった。
あきらめきれず、気持ちの切り替えは難しかったが、すぐに助けが来ない以上、食いつなぐために食料を確保しなくてはいけない。三人ともアウトドアの経験はなかったが、それまで見聞きしてきた情報を思い出しながら、石を叩きナイフにし、木を削って槍を作り、枯れ草を集めて何とか火を起こした。
そう簡単に魚を捕まえることはできなかったが、貝を拾い焼いて食べた。流されたにせよ日本近海のはずである。早々に誰かが助けに来てくれるだろう。そうであれば少しの間、サバイバル生活を楽しもうという余裕もあった。
ところがそうした生活も二週間を過ぎようとしたころから、どうもおかしいという疑問がもたげ始めた。そういう気分の時に限って、晃が追い打ちをかけるような話をしてくる。
「もし、僕らが死んだわけではなく、本当に生きているとしたら」
「そりゃ、生きているだろう」
「どこか近くの島に流されたのではなくて、パラレルワールドに飛ばされたか、タイムスリップしたってことじゃないだろうか?」
「またお前はそういうあり得ない話を……」
「でも、三人が同じ場所に流れ着いているわけだから、そんなに長い距離を漂流したってことはないでしょう。時空の裂け目に嵌ったっていうことかも……」
和也は二人の突飛な話に呆れながらも反論する材料を持ち合わせていなかった。日本に居るはずなのに人影が全く無いのだ。
それからどれほどの月日が経っただろうか。言葉にはしないものの、もはや誰も助けに来てくれることはない、元の生活には戻れそうにない、ということを意識が強くなった。このまま三人で生きていかなくてはいけない。自然の流れと言ってしまえばそうなのだが、徐々に晃と玲子の仲が縮まっていくのを和也は感じた。そう思うと自分がなんだか邪魔者扱いされているように感じ始めた。以前から玲子のことに好意を持っていなかったというわけではなかった。むしろ、玲子の仕草に心惹かれるところもあった。しかし、兄という立場からも、弟の晃の同級生に恋愛感情を持つことは、禁忌行為だという意識もあって、そうした感情を押し殺してきた。
しかし、男二人、女一人の世界で、弟と玲子が結ばれ、自分が除け者にされてしまう状態は想像するに耐え難いことだった。一方でそんな気持ちをそのまま表に出すわけにもいかず、晃に対して強い口調で当たることが増えていく自分を抑えられずにいた。
和也と晃が狩猟に出かけたときのことだった。鹿を獲ろうと待ち伏せしていたときに、逆に自分たちが獣に襲われた。和也と晃は獣の一撃をなんとかかわして、全力で走って逃げたが、途中で晃が躓いて転んでしまった。抱き起して助けなくてはと、一瞬立ち止まったが、後ろから獣が追ってきている。その時、和也の脳裏に邪な考えが浮かんだ。晃が居なくなれば、玲子と二人で暮らせるようになるではないか。それはダメだという心の声も一方で聞こえてきたが、迫ってくる獣への恐怖で和也は再び走り始めた。背後から、「兄貴」という声が聞こえた。振り向いたときには、獣が晃の上に馬乗りしていた。もうどうしようもできない。和也はそのまま走っていった。
洞穴に戻り、玲子に晃のことを話した。玲子は何も言葉を発さず俯いたままだったが、それがまた哀しみを訴えかけているようで見ているのが辛かった。
それから二十年の月日が流れた。和也と玲子は男の子三人、女の子二人の五人の子供をもうけた。自分の種を残したいという気持ちは意思を超えた自然の欲求だろうか。なんとかこの家族を守り、そして増やしたいと思った。しかし、自らの子供たちどうしの交わりでは血が濃すぎてきっと健康を維持できないだろう。
二十年間、ほかの人間とは出会っていない。だから人間はこの世界には居ないと思いながらも、希望という言葉を信じて、和也たちは移動を始めた。
定住しなければひたすら狩猟採集を続けることになる。今いる世界はパラレルワールドなのだろうか。流される以前の世界にも居た生き物はほぼ同じようにそこに居た。時々初めて見る生き物も居た。長い毛の生えた象の形をした大型動物は博物館で見たマンモスと近似していた。しかしマンモスは絶命したはずだ。象の変種かも知れない。普段はおとなしいが、暴れるとかなり狂暴になるので、これを捕えるのは大変だった。味も決して美味しいものではなかったが、干し肉にすると日持ちするので重宝した。
その日もマンモスもどきを見つけ、息子たち三人と捕えようと近づいていくと、茂みから数人の男たちが出てきた。人間だ。しかし、大変毛深くて、肉付きも良く、見た目やけに屈強な印象だった。彼らは獲物に向かって次々と槍を投げ込んでいった。マンモスもどきが倒れたところで、一番下の息子が飛び出していった。彼らに獲物を横取りされないために、彼らを威嚇しようとしたのだ。しかし彼らは強かった。長く太い丸太を振り回し、息子を一撃になぎ倒してしまった。和也も助けようと思わず飛び出してしまったが、あっという間に彼らに取り囲まれてしまった。抵抗しても負けは明らかだ。和也は両手を挙げて服従姿勢を示したが、背後から頭を固いもので殴りつけられ、気を失ってしまった。
和也が目を覚ますと目の前に晃が居た。二十年を経て形容は大きく変わっていたが、それは確かに晃だった。
「晃……」
晃は何も言葉を返してこなかった。
「無事だったのか?」
晃の周りには顔つきのごつい男たちが並んでいる。ようやく晃が口を開いた。
「彼らは僕らが言うところの原人だよ。言葉は話すけど、残念ながら日本語は通じない」
「原人?」
「そう。僕らはタイムスリップしたんだよ。どうやら地震が起きると、強い力が働いて過去に飛ばされてしまうらしい」
「そんなバカな……」
「兄貴は相変わらず発想が固いな……。どの時間に飛ばされるかは分からない。多分地震の強さで遡る時間が変わってくるのかも知れない」
「僕らは何百万年も前に飛ばされたって言うのか?」
「前に言ったろ。突然変異による進化っていうのはおかしいって。進化したんじゃない。種が過去に飛ばされて、その種が始まったんだよ」
和也の頭は混乱していた。もしそうだとしてもその種のもともとの起源はどうなっているんだ……。
「メビウスの輪なんだよ」
そう言った晃の足元に猫が寄ってきた。そして晃の膝の上に飛び乗って身体を沈めた。その猫の様子に見覚えがあった。
「その猫はまさかモナか?」
「少しは頭が柔らかくなってきたじゃないか。そう、先に元の世界から消えたけど、つい最近ここに現れたんだよ」
和也は殴られたせいなのか、頭がズキズキしてうまく思考できなくなっていた。眩暈がして吐き気もしてきた。座っていられず、横になる。視界が徐々に薄れていった。

大学の研究室。そこにはまだ顔にあどけなさが残る学生然とした晃と玲子がコンピューターに向かっていた。
ガラス越しのベッドには和也の姿をしたアンドロイドが横たわっている。こめかみの皮膚がめくられてそこに何本もコードが繋がれていた。それがなければ、人間にしか見えない。パソコンのモニターには和也が原人に囲まれて襲われかけている画像が映っていた。
「ようやく記憶のインプットが終わるよ」
「思ったより手間取ったわね」
「頑固な性格に初期セットしてしまったからね。でもこれで大丈夫だろう」
「そうね。これで彼が大学に残って研究を続けて、進化論の新説を発表してくれればね。それでようやく間違えた歴史観が修正されていくはず……」
「アンドロイドだと分からないよう、彼の耳の後ろのスイッチボタンは人工皮膚で隠しておいた方が良いな」
晃は満足そうにモニターに映っている最後のシーンを見ていた。その晃の耳の後ろには鈍く銀色に光るスイッチボタンがついていた。
 (了)
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