第18話 俺の目の黒いうちは

文字数 1,991文字

町には小さな工場が並んでいた。町を蛇行する川に水底が見えることはなく、町全体に潤滑油の重い臭いが漂っていた。
聡子の両親はこの町に住み、工場で働いていた。聡子もこの町の学校に通い、卒業してある工場で少し働いたあと、同級生だった武夫と結婚した。武夫は高校時代、美術クラブで、少し風変りだったけれど何故か引き寄せられる絵を沢山描いていた。聡子はそんな絵が好きで、武夫はきっと画家になるのだろうと思っていたが、父が早逝して、学校を辞めた。武夫の父は工場を経営していて、武夫が跡を継ぐことになったのだった。継いだあとは社員が何人か一斉に辞めたりして随分苦労したようだ。
武夫の工場では鋳造でバルブの部品を作っていた。高温で金属を鋳型に流し込む典型的な3K職場だった。新しい社員が入ってもなかなか長続きしない。十人程度の社員の工場。社員が一人辞めると急には補充がきかず、武夫と聡子がその分働いた。
丁寧に作るので製品の評判は良く、大手企業とも取引できていたが、景気に左右されて波がある。従業員の給料も多くは出せない。しかし、資金繰りが厳しくなっても、給料日には必ず支払ってきた。
息子が一人。健太と言った。武夫は酒、博打、女をやるわけではなく、趣味といえば野球中継を観ることくらい。決して生活が楽ではなかったが、一年に一度、家族で温泉旅行に行くのが聡子の楽しみだった。
健太は中学を出て、工業高校に進んだ。自分の跡は健太が継ぐ、そうしたら自分も晴れて引退だと、武夫は自慢げに話していたのだが、健太が高校を卒業する段になり、芸大に進んで画家になりたいと言い出した。武夫は烈火のごとく怒りを露わにした。
「そんな親不孝なやつは出ていけ。出ていって絵でもなんでも好きなことをすれば良い。その代わり俺の目の黒いうちはこの家の玄関を跨がせないからよく覚えておけ」
「ああ、分かったよ。そうするよ」
当初、聡子は二人の喧嘩の結末を楽観的に考えていた。元々は武夫も絵を描いていた。嫌いではないはずだ。しかし、その分、画家として生きていくことの難しさを理解していたかも知れない。また、武夫の頑固で意地っ張りな性格が健太に遺伝してしまったのか、健太は本当に出ていってしまった。
もともと賑やかな家ではなかったが、健太が居なくなって益々静かになった。聞こえてくるのは野球中継の実況放送のみ。
便りのないのは元気な証拠、と簡単には割り切れない。聡子は武夫に内緒で頻繁に健太に会いに行っていた。武夫もそのことに気付かなかったわけではないだろうが、知らない体で、何も聞いてこなかった。
健太は芸大を卒業し、プロを目指して絵を描き続けていたが、一向に売れないままだった。聡子が武夫にその苦労ぶりを伝えると、言わないことではないと、つれない返事。
暫くして、健太から、絵が売れたと聡子に連絡がきた。電話の向こう側からでもその様子が伝わるくらいに健太は大喜びだった。早速、武夫にも伝えたが、絵具代にもならない値段だ、と悪態をついた。
健太の絵はその後も何枚か売れた。売れ始めると、失いかけていた自信も取り戻し始めたようだ。そして雑誌にも取り上げられ、評判が出始めた。
健太から、結婚することになったと聡子に連絡が来た。しかし、絵で家族を支えられるものか、と反対し、武夫は結婚式にも顔を出さなかった。
やがて子供ができて、孫の顔を見て欲しいと嫁から連絡が来たときも、武夫は断った。これにはさすがに健太も腹を立てたようで、二度と親父に会うつもりはない、と普段以上に声を荒げた。
それから十年して、武夫が自転車で近所に買い物に出たときに自動車との接触事故に遭ってしまった。怪我は大したことはなかったが、数日の入院で、急に老け込んでしまった。それまで働き詰めで来た反動が出たのかも知れないとも思ったが、念のためにと受けた検査でガンが見つかった。
そこからの進行が早かった。もう長くはないだろうと嫁と孫に来てもらった。本当は健太にも来て欲しかったが、意地を張って出てこない。
数日も置かず、武夫は亡くなった。それ以前から仕事は減っていたので、武夫の死を区切りに工場を閉めることにした。
荷物の整理のため、健太にも手伝いに戻って貰った。健太にとっては二十年ぶりの帰宅。健太の部屋は荷物もそのままに置かれてあった。社員も減って稼働も落ちていたこともあり、片付けは早々に目途がついた。
裏に倉庫がある。倉庫の鍵は武夫が保管していたので聡子も開けたことがなかった。健太が倉庫のドアを開けてみると、がらんどうの部屋の真ん中にイーゼルと小さなテーブル、テーブルの上には画材が置かれてあった。壁に絵が何枚か飾られていた。
先に中に入っていった健太の息子が絵を一通り見たあと父親に聞いた。
「これ、パパの絵?」
「そう。……パパの最初の頃のね。それから、きっと、あれはおじいちゃんの絵だ」
 (了)

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