第20話 蜘蛛の糸

文字数 1,714文字

神田剛士。生まれたときから父は居らず、母も薬物依存。これらは彼の境遇に対する同情の材料にはなるが、悪行を流してしまえる話ではない。
世界中のものは自分のものであるかのように躊躇なく盗みを働いた。小学校ではクラスメートの文房具を盗んだ。盗んで自分で使うわけでもなく単に焼却場に放り込んだ。彼らの弁当も勝手に食べた。自分は弁当を持ってきていないのだからと当然のように食べた。食べられた子の食べる分が無くなることについては全く気に留めなかった。
母が薬物依存のリハビリ施設に入った際に、母の実家に引き取られた。しかし、叔父夫婦のあたかも弱者を庇護しているかのような偽善ぶりに我慢ができなかった。彼らに暴行を働き、有り金を盗み、そして、吠えてきた飼い犬を殴り殺した。
近所の駄菓子屋は剛士の食卓だった。店番のおばさんが見ている前で堂々とお菓子を開けて食べた。注意されて、店の棚をことごとくひっくり返して暴れてからは、おばさんは見て見ぬ振りをするようになった。ある日、おばさんが通報したのだろう、警察官がやってきて捕まった。警察で散々絞られた。腹が立ったので、その日の夜、店に火をつけた。家ごとおばさんも焼け死んでしまったが、剛士が後悔したのは、お菓子を食べる場所がなくなってしまったことだった。
少年刑務所から、成人を過ぎてからは行き先が刑務所に変わった。何度目かの収監を終え、更生保護施設に寝床が与えられた。しかし、剛士は二日と滞在しなかった。
自活しなければいけないが、働く気などさらさらない。あちらこちらに防犯カメラが設置され、万引きも簡単にできなくなった。捕まっても罪悪感などなかったが、規則だらけの刑務所暮らしは嫌だった。
どうしようもないくらいに腹が減っていた。通りがかった中華料理屋から、町中が厨房になったかのようなチャーハンを炒める匂いと中華鍋を叩く音が聞こえ、この店で腹を満たそうと暖簾をくぐった。
女性店員から注文を聞かれ、メニューも見ずにチャーハンを頼んだ。少しして出てきたのは店主。金は持っているのか、と尋ねてくる。お客に向かって失礼なことを、声を荒げて立ち上がったとき、見覚えのある若い男の顔が厨房に見えた。確か剛士が以前無銭飲食をしたことがある店で働いていた男だ。暴れても良かったが、どうせこの店では飯にはありつけないと悟り、あきらめて出ようとした。
その時、後ろのテーブルに座っていた女性から名前を呼ばれた。
「小学校で一緒だった木下だけど、覚えてる?」
「…………」
思い出せなかった。小学校のクラスの奴らの顔など覚えていない。
一緒に食べようと誘われ、これ幸いと、彼女の前に座った。
会話のないまま食事を待ち、チャーハンが来てからも黙々と食べた。皿を平らげたあと、ようやく木下と名乗る女が口を開いた
「神田君は覚えてないかも知れないけど……。体育の時間に私が教室に戻ったとき、神田君が私の弁当を開けて食べようとしていたの」
「そんなこと覚えてないよ」
全く記憶になかった。
「私のことを見て、食べずに鞄に戻したわ。なんだか私、その時嬉しくて、そのことをずっと覚えてるの」
「そうか……」
食事代は彼女が払った。弁当を食べなかったくらいで感謝するとは気の良い女だ。この女と一緒に居れば食うに困ることはなくなるのではないかと思った。
ところが、そう思った途端、居なくなられるのが怖くなった。それじゃ、と手を振って、離れていく彼女の後頭部に向かって、剛士は近くにあった植木鉢を掴んで強く打ち下ろした。鈍い音。女はその場に倒れた。うつ伏せになった彼女の頭の横からゆっくりと血が流れ出た。神田は投げ出された鞄から財布を取り出して走って逃げた。
通り沿いに設置されていた防犯カメラで直ぐに犯人が特定され、剛士は逮捕された。
留置所で、彼女が頭部挫傷で半身不随になったことを聞かされた。
その後、剛士は、自身が脳溢血で死亡するまで十年間刑務所で過ごした。
刑務所に居る間、週に一度、必ず彼女に手紙を書いた。手紙の最後は必ず「ごめんなさい」で締められていた。
しかし、送られた手紙は彼女の両親によって開封されないまますべて破棄され、誰にも読まれることはなかった。
(了)
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