第11話 動物マスク

文字数 1,854文字

玄関の呼び鈴が鳴った。出てみると、たいそうリアルにできたワニのマスクを被った宅配便の人が立っていた。治療法やワクチンが見つかっていない感染症が流行り始め、マスク着用が推奨されたが、市中ではマスクが出払ってしまい入手が困難になってしまった。
「ワニですね……」
「はい、マスクが切れてしまったので」
「そのマスクで効果ありますかね?」
「無いよりマシですから」
「はあ……お疲れ様です」
買い物に行こうと部屋を出た。エレベータが三階で止まり女性が乗ってきた。よく見かける女性。好きなタイプだが、話し掛ける勇気は僕にはない。商店街では動物のマスクを被った人をチラホラ見かけた。象のマスクを被って自転車に乗っている人はさすがに大きな耳が風の抵抗を受けて漕ぎづらそうだった。スーパーのレジの店員はパンダで、僕にスマホ決済用のQRコードのシートを差し出した。マスク不足は深刻だった。
会議があったので久しぶりに出社して出席してみると、みんな動物のマスクを被っていた。猫、馬、羊。リスは可愛い。 瞬きしない鳩はちょっと怖い。人間は僕だけで、なんだか恥ずかしかった。
「次回はテレビ会議でやりましょうか」
チンパンジーが提案した。
普通のマスクはその後も売り切れ状態が続き動物のマスクをすることが一般的になり、着けていない人を見かけなくなった。最初は着用していない人に対して注意がされる程度だったのだが、段々と暴力的になってきた。
「今日未明、マスクを着用せずに自転車に乗っていた新聞配達員の田中弘明さん五十三歳が、動物マスクを被った複数名に暴行を受けるという事件が起きました。被害者の田中さんは病院に運ばれ危篤状態となっております」
こうしたニュースが珍しくなくなってきた。最初こそ暴力はいけないという声もあったものの、感染者数が増加していくなか、マスク不着用はある意味テロ行動であり、これを駆逐することが正義だという流れになってしまった。警察もマスクを着けている犯人を検挙するのは難しく、その流れを歓迎した。
僕は動物マスクなんかで感染症が防げるとは思っていなかったし、流行りのリカオンというオオカミに似た動物のお揃いのマスクで団結意識を示威する動きが何しろ気に食わなかった。感染対策にはハンカチで鼻口を覆うだけで十分だ。僕はその恰好で外出しようとした。エレベータが三階で止まり女性が乗り込んできた。リカオンのマスクを被っているが、僕のお気に入りの女性だ。
「あのう・・・、このマスク着けた方が良いですよ。その恰好じゃあ危ないから。これ予備で新しいものですからどうぞ」
彼女に渡されなければ僕はリカオンのマスクを被ることは無かっただろう。そして、その日の夜の帰り道、駅前の通りでリカオンの群れにボコボコにされていたのは熊のマスクを被ったサラリーマンではなく、僕だったに違いない。
町中がリカオンのマスクをつけた人で溢れるようになった。色んな動物のマスクで微笑ましかった光景はもうない。
リカオンのマスクを被って、夜コンビニで牛乳を買って帰ってきた際、三階に住む女性がゴミ袋を両手に持って出てきた。ゴミ置き場に行くだけだからだろう。マスクを着けず素顔のままだった。僕はエレベータに乗って昇り始めたが胸騒ぎがして急いで引き返した。予感は当たった。彼女が十人ほどのリカオンの群れに取り囲まれていた。リカオンが彼女にまさに襲い掛かろうとしていたとき、僕は殆ど無意識に牛乳パックの入ったコンビニ袋を振り回しながら向かっていった。張り裂けて飛び出した牛乳がリカオンに降りかかる。僕の抵抗もそこまでだった。僕は取り囲まれ次々と殴られて地面に倒れた。救いは彼女がこちらを振り返りながらもうまく逃げて行ったことだ。僕は力を振り絞り、僕の胸倉をつかんで最後の一撃を食らわせようとした男の親指の根元に噛みついた。その後のことは覚えていない。目を覚ましたら、酷い頭痛と粉々になったガラス瓶が側にあった。
怪我が治って退院した時にはもう薬が開発され疫病の流行は収まっていた。もう誰もマスクを被っている人は居なかった。町は驚くほどに以前の日常が戻っていた。駅前の商店街も賑やかさが戻っていて、ソースの焦げる匂いに惹かれ、たこ焼屋に立ち寄ってみるとちょうど三階の女性がたこ焼を受け取っているところだった。彼女は僕が助けたことを気付いていないが彼女の笑顔で十分だ。
愛想の良い店員が、一個おまけしとくね、と手渡していた。その店員の親指の付け根には大きな歯形が残っていた。
      (了)
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