第17話 髪染めの匂い

文字数 4,156文字

「野菜が足りてないんじゃないの?」
「ちゃんと食べてるよ」
母と妻と三人で囲む食卓。僕は不快な顔を隠さなかった。
「おひたし食べてないじゃない。彩香さん、野菜は大皿じゃなくて、最初から取り分けておいた方が良いわよ」
「明日はそうしますね」
母の小言が日満しに増えてきた。
「友也はまだ帰ってこないのかしら?」
「今日も遅くなると思いますよ」
大学生の息子は毎日友達と出歩いていて、食事を家ですることは殆どなくなり、家には寝に帰るだけだった。しかも明け方近くになって。母も知っているくせにわざわざその話を持ち出して食事の雰囲気を悪くした。息子に注意したって、もう言うことなんか聞くような歳ではない。これまで口酸っぱく何度も言ってきたことは母もよく知ってる話だ。
母は一昨年、自転車に乗っているときに自動車に引っ掛けられて事故に遭った。その時の後遺症で歩くのが少し不自由になり家に居る時間が長くなった。歩かなくなると呆けが早くなると聞いたことがあるが、確かに母は物忘れが多くなってきたようだった。しかしこの友也の話は違う。ちゃんと友也に指導しろと言っているのだ。持って回った話しぶりにまた腹が立った。
「彩香さんは、仕事順調なの?」
「そうですね」
彩香の仕事はスーパーのレジ打ちのパートだ。長時間働いていて、家の仕事がきちんとできてないとか言いたいんだろうと苦々しさが込み上げてきた。
「もう良いよ、母さん。食事中にうるさい。黙ってて」
「……」
ついつい、声を荒げてしまった。そのせいで食卓には一層気まずい雰囲気が流れた。我が家では、ここのところこんなことが続いていた。
母が寝室に入ったあと、僕は妻にずっと考えていたことを話した。
「母さんには施設に入って貰おうと思ってる」
「そうなの?」
母は身体の節々が痛くなり、体調の不調を訴えることも増えてきた。徐々に普段の生活にも不便を来たし始めてきたようだった。医師も常駐している、設備の綺麗な介護施設を見つけたので、そこに入って貰った方が安心だと。しかし、それは表の理由で、一緒に居るとストレスでこっちが参ってしまいそうだというのが本音だった。そこまで言わなくても彩香も感じていることだろうと思った。
「お義母さん、施設とか嫌いだと思うけど……。そこ新築じゃないでしょう?自分よりも前に誰かが住んでたっていうの嫌がるんじゃないかしら?」
「そんな贅沢を言われたって困るよ。そこだって結構高いんだから。まだ築十年くらいだから綺麗なもんだよ」
母に話すと、妻が言った通り、母は露骨に嫌な顔をした。長年住んだこの家を離れるのは寂しくなるだとか、近所の人と会えなくなるだとか、家にある溜まった自分の持ち物はどうするんだとかブツブツと独り言のように次々と文句を吐き出した。
「施設はここから距離も近くから、会いに行くし、頻繁に帰ってきたって良いんだから。とにかく医者が近くに居た方が安心でしょう」
「……」
母は、厄介払いされたと思ったに違いない。何も言わずに自分の部屋に戻っていった。
母は不承不承ながら施設に入ることを受け入れた。母が施設に入所すると家はすっかり静かになった。息子は家に居ても部屋に籠っているので顔を見るのは稀だったし、妻も自由になる時間が増えたので、別の仕事も始めて、食事の時間もバラバラになることが増えた。僕は長らくなかった独りの静かな時間を心穏やかに過ごせるようになった。
一か月ほど経った頃、僕は夜中に夢を見た。夢の中で自分の姿が見えた。子供の頃の自分だった。阪神タイガースの野球帽を被っている。学校では大抵のクラスメートはジャイアンツを応援していたが、亡くなった父がタイガースファンだったことから僕もそうなった。その頃の僕はグローブ片手に家の前の道路でよく壁に向かってボールを投げ込んでいた。家は建て替えをした今の家の前のもので、表には「タナカ美容室」と書かれた看板がクルクル回っていた。自宅の一階部で母が美容室をやっていたのだ。住宅街に位置していたが、近所に美容室がなかったせいなのか、当時はかなり繁盛していた。子供の僕は壁にバウンドして返ってくるボールを野手が捕球する真似をして拾っていた。投げたボールが上手く壁の出っ張った角に当たるとライナーになって返ってきた。なかなかうまく当たらなかったが、その角を狙ってよく投げていた。
目が覚めて、妻にグローブの在りかを聞いた。息子が小さい頃はよく一緒にキャッチボールをしたものだったが、カビが生えていたので捨てたと言われた。
次の日の夜、また夢を見た。一階の美容室が和室に繋がっていて、間はアコーディオンカーテンで仕切られていた。母はそこで和服の着付けもやっていた。子供の僕はその和室に寝転んでいた。アコーディオンカーテンが少しだけ開いていて、寝転がった視線の位置から美容室の様子が見える。僕はピンポン玉を天井に投げて遊んでいた。カーブ、シュート。ピンポン玉はよく曲がった。自分がひどく上手な変化球投手になった気分だったことを思い出した。夢の間中、ずっとピンポン玉を投げ続けていた。友達が居なかったわけではなかったが、一人で遊ぶことが多かったかな。部屋の隅には卓球のラケットが置かれていた。そうだ、僕は子供の頃、随分と卓球が上手だった。中学に入ったら、卓球部に入ろうかとも思っていた。時々、市営の体育館で、卓球台を挟んで母とラリーをした。僕が思いっきり打ち込んでも母は返してきた。母も上手かった。
次の週末に、妻と一緒に施設に母の様子を見に行ってみた。その日は暖かく、母は庭のベンチに座って本を読んでいた。
「気持ち良さそうじゃないか」
「……」
母が顔を上げた。
「本なんか読んで、優雅だね」
「他にやることも無いからね」
また嫌味が始まったかと思った。
「施設に入ってる他の人達とは仲良くなったの?」
「……忙しいのに、遠いところまで来てくれてありがとうね」
質問には答えない。施設は車でほんの三十分くらいのところにある。どうしていつもストレートな物言いができないのか、そんなだから、益々足が遠のくのだ。
その日の夜の夢は、食卓だった。子供の僕は電子レンジから温めたおかずを取り出して、卓袱台でご飯を食べていた。テーブルにはラップを掛けられたおかず。そんなに要らないって言っているのに、数が少ないと寂しいからと、いつも食べきれないくらい何種類ものおかずが並んでいた。僕は野菜が嫌いでいつも残していた。後から、母に野菜を食べるまで許さないと言われて、渋々涙ながらに口に入れたこともあった。その日も僕は野菜に手をつけていなかった。
「おいおい、ちゃんと野菜食べとけよ、また母さんに怒られるぞ」
僕の言葉は届かなかった。
そこで目が覚めた。まだ外は真っ暗だ。どうやら息子が返ってきたらしくガサゴソと音がしていた。
最近どうも子供の頃の夢ばかりを見るようになった。普通、自分の姿は見ることはない。夢のなかで子供の頃とは言え、自分の姿を見ることは、録音された自分の声を聞くときのように違和感があった。僕の顔は無表情で愛想がなかった。きっと子供の頃の写真を見て僕が想像した姿なんだろう。
夏の暑い日だった。毎年どんどん夏の気温が上がっていくのが体感された。僕は白いビジネスシャツを着て、手にジャケットを持って歩いていた。クールビズとか言われる前は夏でもみんなネクタイをしていたことが今となっては信じられなかった。太陽が照り付けて、アスファルトからは陽炎が昇っていた。僕のシャツは汗だくになり、額の汗を拭ったハンカチは水分を含んで重くなっていた。
僕が歩いていたのはどこにでもあるような住宅街だった。前方に美容室の看板が見えた。『タナカ美容室』。周辺の景色に懐かしさを感じた。タナカ美容室の前には打ち水がされていた。打ち水された場所からは湯気が立ち上り、黒く濡れた地面は暫くすると乾いて元のくすんだアスファルトの色に戻っていった。
近づいていくと、玄関の前で子供の頃の僕がホースを握っていた。なんだ、また夢か?
僕はひどく喉が渇いていたので、子供の頃の自分に話しかけた。
「お水貰って良いかな?」
「……」
子供の僕は少し躊躇したあと、ホースを差し出した。僕はそれを受け取り、流れ出る水を口に入れた。飲んでも飲んでも喉の渇きは収まらなかったが、徐々に口の中が湿ってくるのを感じた。
「よく独りで遊んでるね。友達とは遊びに行かないの?」
「……」
子供の僕は、ホースから流れる水をじっと見ていた。
美容室の入り口につけた風鈴がカランと高い音を立ててドアが開いた。お客さんが出てきて、その後を若い頃の母が続いた。
「お世話になりました」
「またいらしてください」
開いたドアからは髪染め液の匂いが漂ってきた。美容室では、いつもこの匂いがしていたことを思い出した。
「どなた?」
母は息子の方を向いて話しながら、その向こうに居る僕に聞いていた。
「喉が渇いたので水を飲ませて貰いまして」
母は不審そうな目を僕に向けた。気圧されそうな雰囲気に僕はたじろいで、立ち去ろうと後ずさりした。
「お母さん、今日はもうお客さん終わり?」
「うん、今日は暑いからもう暫くお客さん来ないと思うよ」
「じゃあ、僕の髪切って」
「いいわよ」
嬉しそうな顔をした子供の頃の僕は、僕の存在など最初から無かったかのようにさっと店の中に入っていった。母は僕に向かって軽く会釈したが、その目は子供を守ろうとする動物の目をしていた。僕は早くその場を立ち去らねばと、会釈を返してその場を離れた。後ろでドアが閉まる音が聞えた。
僕は少し経ってから、店に戻ってそっと中を覗いてみた。母が子供の僕の髪を洗っていた。そうやって上向きになってシャンプーをしていたなぁ。そして、自分が子供の頃に水を飲みにきた怪しい大人が居たことの記憶も蘇った。なんだ、僕だったのか……。

「苦労掛けるかも知れないけど、良いか?」
「良いわよ」
僕が運転する車の中、助手席の妻に確認した。
施設に着くと、荷物を纏めた母が玄関で待っていた。嬉しさを隠せない顔をして、何も言わず、さっと車に乗り込んできた。その顔は散髪をして貰うときの僕の顔にそっくりだった。
                             (了)

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