第2話 ディオネラ・マスプシラ

文字数 1,447文字

僕は天気が良いのに週末にやることが無いときは、行く先を決めずに原付バイクに乗って出かけることにしていた。バイクで走ると風がとても気持ち良く、一週間の疲れを忘れさせてくれた。
海岸線から山側に入った通り沿いに多肉植物をメインに取り扱っている花屋があり、そこに立ち寄ってみた。以前から気になっていた店だったが、入ってみると、愛らしい多肉達が幅三十メートルの敷地に並べられていて圧巻だった。そんな表舞台の多肉群から離れたカウンターの隅にそれは置かれてあった。
ディオネラ・マスシプラ。一般にはハエトリソウと言われる食虫植物で、口をぱっくりと広げたような形でこちらを見ていた。なんだかしゃべりそうだなという気もして、つい面白半分で買ってみた。
自宅に戻って窓際に置くと暫くして、こいつが言葉を口にした。
「喉乾いた」
僕は驚いて水を注いだ。
「ふう」
彼は最初、言葉を話すと言っても片言だけで、「おはよう」「おやすみ」といった挨拶やいくつかの単語を僕の真似をして話す程度だった。たどたどしくも、彼は彼なりに頑張っている姿勢が微笑ましく、僕はめいっぱい可愛がって、マイケルという名前をつけた。以前飼っていた犬の名前と同じ名前だった。
マイケルの成長は速く、あっと言う間に流暢にしゃべるようになった。
「暑いからカーテン閉めてよ」
と言っているうちはまだ可愛かったが、
「普通、これだけ太陽差し込んできたら、気を利かせて、日陰に移すよね」
などとカチンと来るような言い方をし始めてから、僕らの間には段々と距離ができてしまった。
仕事も忙しくなって僕の帰宅が深夜になること多くなり、「おかえり」の挨拶もなくなった。僕も静かにただ水やりだけをしてそのままベッドに入ってしまうような日が続き、話せるはずのマイケルとの会話もなくなってしまった。
流行り病が世間を騒がせるようになって、国中で外出自粛要請が出された。普段は意識しないままそれなりに歩いているものが、すっかり歩かなくなってしまったせいで、お腹周りに肉が付き始めた。自重も感じ始めたので、ネット動画で出来そうなプログラムを探した。トレーニングは思ったよりタフなもので、僕は途中で息が切れてへたり込んでしまった。
「ほら、もうちょっと」
後ろからマイケルが話しかけてきた。
「えっ?……ああ」
僕はもう一度立ち上がって、なんとかプログラムを終わらせた。
「なんだか最近家に居るじゃない」
僕はまだ息が上がっていた。
「……だね」
換気のために開けていた窓から虫が入ってきて、マイケルのところに吸い寄せられるように飛んでいった。うまく捕えられるかと静かに見守っていたが、マイケルの口が閉じる前に虫はすり抜けて飛んでいってしまった。
マイケルは残念そうだった。
「まあ、そういうこともあるよ」
僕は慰めたつもりだったが、マイケルは返事をせず顔をそむけていた。
秋が近付いてきて、日が暮れるのが早くなってきた。僕は地道に脚本を書いていてコンクールにも応募していたが、その日が発表の日だった。結果を見るためパソコンを開けた。
「……はぁ」
僕は大きな溜息をついた。
「またダメだったの?」
「……ああ」
「まあ、そういうこともあるよ」
マイケルは笑っていた。僕は黙ってマイケルを睨みつけながら、前の日に開けた赤ワインをグラスに注いで、パルメジャーノチーズを頬張った。
「でも、そのうち良いことあると思うよ」
マイケルが聞えるか聞こえないかくらいの声で呟いた。
「はい、チーズ」
僕はマイケルの口に小さく切ったチーズを乗せてあげた。
(了)
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