第24話 いつかきっと

文字数 2,686文字

「目を閉じて」
サトシが紗香に言った。紗香はキスでもするのかと疑わしげな目を向けた。
「いいから」
仕様がないな、とあきらめて目をつぶった紗香に、サトシは手に取ったスプレーを全身に振りまいた。紗香は突然のことに身体をのけぞらせた。
「目を開けちゃダメだよ」
そう言いながら、自分の頭から足先にもさっとスプレーした。
何秒かして、サトシは目を開けた。周りの様子を確認してから、紗香にも目を開けるよう促した。
「えっ、どういうこと?」
綾香はただただ驚いて、キョロキョロと頭を回した。
そのスプレーはとある骨董屋で手に入れた。スプレーペイント用かと思ったが、何故骨董屋にあるのかと不思議に思って手に取っていたら、主人から声を掛けられた。
「そのスプレーを身体に掛けるとね、身体が小さくなるんだよ」
つまらない冗談だと思った。
「疑ってるね。一度使ってみなよ」
全く本気にしてなかったサトシは「じゃあ」と言って、さっと全身にスプレーしてみた。
臭いが消えて、ゆっくりと目を開けてみると、目の前には巨大化した主人が立っていた。驚いて尻もちをついた。視線の先のカーテンの間には巨大な在庫の本が並んでいた。
「僕が大きくなったんじゃない。君が小さくなったんだよ」
主人はそう言って、今度は元の身体に戻るというスプレーを手のひらに乗せて、サトシに差し出した。サトシは代金を払ってそのスプレーを買い求めた。
サトシは混乱していている紗香にそんな骨董屋での話をした。
小指ほどの大きさになった二人には、サトシの住んでいるワンルームの天井が、ドーム球場に来たかのように高く感じた。最初はただただ戸惑っていた紗香も「すごい、すごい」と部屋の隅から隅までグルグル走り始めた。スポーツウーマンの紗香は竹を割ったようなさっぱりした性格だ。その環境適応力の速さにサトシもよく驚かされるが、そこが気に入っているところでもあった。
サトシが高くジャンプして、ベッドの上に飛び乗った。
「そんなに高く跳べるの?」
「紗香も跳べるよ。やってみな」
そんなわけはないでしょう、とブツブツ言いながらも、助走をつけてベッドに向かって走った。跳躍すると、身体が綺麗な円弧を描いて、柔らかな布団に両手を広げて着地した。
「凄い!」
布団の中から這い出てきた紗香は大はしゃぎだった。骨董屋の店主の話によれば、元の身体で跳べる高さまでは、小さな身体になっても跳べるということだった。力もまた、元の身体で持ち上げられる重さまでは、持ち上げられるらしい。サトシも試しにやってみたけれど、確かに力はあるが、大きいものはバランスを崩してしまうので、持ち上げるのは難しかった。
ベッドから飛び降りた二人は鬼ごっこをしながら、フローリングの床の上を走り回った。コップ用のコースターをマットにしてヨガをした。落ちていた米粒をボールにして、アメリカンフットボール。サトシが投げた球を、紗香が落下点に走り込んで上手にキャッチした。
二人ともすっかり汗をかいてしまったので、洗面台に水をためて飛び込んだ。決して大きなプールではないけれど、プカプカと浮かんでゆったりできた。
洗面台はツルツル滑るので、這い上がるのが大変だ。それは分かっていたので、デンタルフロスを蛇口に巻き付けて洗面台に垂らしていた。足を滑らせながらも、フロスをつたってプールから上がった。
スリッパの上に身体を委ねて、テレビのリモコンのスイッチを入れた。画面は十九インチしかないが、巨大な映画館以上の大きさだった。吐き出される音が床をつたって、ズンズンと身体に響いてきた。銃撃戦になると、自分が撃たれているような気分になった。
自分の頭ほどの大きさのポップコーンにかじりつきながら、映画を一本観た。
「面白いことを思いついた」
そう言って紗香が、部屋の隅に置いてある自動掃除機の上に飛び乗った。
「サトシも乗りなよ」
スイッチを入れると掃除機が動き出した。ゴーカートのようで面白い。突然動きが変わって方向転換するので、しっかりつかまっていないと振り落とされてしまう。
左に九十度転換したところで、サトシの手が滑って落ちてしまった。サトシが起き上がろうとしたところに、更に反転した掃除機が向かってきた。驚いたサトシは転んでしまい床に横たわった。グルグルと高回転で回るブラシがサトシに近づいてきた。
「吸い込まれる」
掃除機がサトシに覆い被さろうとしたその時、エンジン音が止まり、ブラシの回転が遅くなった。紗香が機転を利かせてスイッチを切ったのだ
「助かったよ」
「命の恩人ね」
紗香はニヤニヤと笑いながら恩を売った。
二人の後ろに巨大な影が現れた。全身に毛が生えて、大きな目がギロリとこちらを睨んでいる。脚先の鋭利な爪が床を鳴らした。猫だった。ベランダに繋がるドアが開いていてその隙間から入ってきたようだ。
「逃げろ」
二人は走った。それを見て、猫が素早く飛び掛かってきた。紗香は大きくジャンプして布団の中に飛び込んだ。猫がそれを追い掛けてベッドに飛び乗った。前脚で激しく布団を掻き分ける。このままでは紗香が掘り出されて、猫の餌食になってしまう。サトシはテーブルに駆け上がり、ティッシュペーパーを取って破り始めた。割りばしの先にご飯粒を練って破ったティッシュを貼り付けた。
「チッ、チッ、チッ」
床に飛び降りたサトシは、割りばしを振り回して、そう声を発した。猫は振り返り、フワフワ動くティッシュを見て、紗香のことは後回し、ベッドから飛び降りた。
サトシはうまく猫の前脚を交わしながら、割りばしを振って、そのままベランダに放り投げた。猫はそれを追いかけて出ていった。背を向けている隙に急いでドアを閉めた。
「命の恩人だね」
布団から這い出してきた紗香に、サトシがニヤニヤしながら言った。
猫の攻撃をどうにかかかわした二人だが、甚大な被害を被ってしまった。元の身体の大きさに戻れるスプレーが猫によって踏み潰されて壊れてしまったのだ。
「僕たちずっとこのままかも……」
やけに広いワンルームに西日が差し込んできた。

ワンルームのベッドの上。サトシと綾香が横に並んで寝ている。サトシが始めた、身体が小さくなるというスプレーの話をしているうちに、いつの間にか二人とも眠ってしまっていた。
目を覚ましたサトシが横を向くと、紗香も目を開けていた。ワンルームの部屋の中。シングルベッドに二人が窮屈そうに身体を並べている。
「いつかきっと、大きい家に住めるように頑張るから」
サトシが紗香の横顔に向かって呟いた。
「そうね……でもずっとこのままでも良いよ」
夕日が壁一面を朱色に染めた。
(了)
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