第14話 死者を運ぶタクシー

文字数 4,814文字

浩司は頭を抱えながら、ふらふらと車に近づいていった。どうやら強く頭を打ったようだ。車は最近よく見かけるようになったカブトムシのミニバン型のタクシーで、開いた後部座席の横に制服姿の男が立っていた。
浩司は促されるままに座席に腰を下ろした。ドアが自動で閉まり、静かに車が走り始めた。周囲は霧に包まれて何も見えなかった。
「お疲れ様でした」
運転手の初老の男が話しかけた。
「はあ……これはどこに向かっているんでしょうか?」
「はい。黄泉の国です。死んだ人たちが行く場所ですな」
「えっ?ちょっと待ってください。僕はまだ死にたくないんですけど」
「はあ、そう言われましても。お客さんはもう死んでるんです」
「そんな……冗談でしょう?」
「いえ、本当です。お客さんはなん死んだか覚えてないんですか?」
「いや、全然……」
「頭を打って記憶を失われましたかね。時々いらっしゃいます。まあ、死んでしまったことには変わりありませんから」
「その……なんとかなりませんかね?」
「なんとかっていうのは?」
「生き返るってことです」
「そんなに生きたいんですか?」
「そりゃそうです。まだ五十歳ですよ」
「ふーん、そうですか。それで、生き返って何がしたいんです?」
浩司はそう言われて戸惑った。別に仕事でやり残したことなどなかった。言ってしまえば毎日同じことの繰り返し。退職金を貰えるまでは働こうと思っていた程度だった。家に帰っても何をするわけではなく、何を観たのか忘れてしまうような番組を観て、風呂に入って寝るだけだった。妻と娘は何か話していたが、関心も惹かれない話で、また何のことやら見当がつかなかった。週末も知らないうちに過ぎていた。生き返って何をやりたいかと言われて哀しいかな、何も思いつかなかった。ただここで死ぬと分かっていたなら、もっとちゃんと計画して何かやっていたはずだと思った。
「とにかく、その……待って貰えませんか?」
「困りましたね」
「そこをなんとか……」
「分かりました。その代わりと言ってはなんですけどね。私も運転手をやって長いのでちょっと休みを取りたいと思ってたところです。少し休みを頂戴しますから、その間、替わりに運転手をやって貰えますか」
「あっ、はい」
「なに、一本道を往復するだけです。私が休暇から戻るまでの間はあの世に行くのを猶予するってことでどうです?」
「そうですか、分かりました。ありがとうございます。」
「そうそう、良いことを一つ教えてあげましょう。百年に一度、現世に戻れる穴が空くんですけどね。それがそろそろなんです」
ぽっかりと穴が開いて、そこに入っていくと生き返れるということだった。ただその穴は一人しか入れず、一人が入ると穴が閉まってしまうと運転手は話した。
「私の休暇の間に、うまく穴が開くと良いですねえ。開かなかったら諦めてくださいね」
運転手は背を向けて手を振りながら霧の中に消えていった。

制服姿の浩司がタクシーの横に立っていると、来訪者が歩いて近づいてきて、浩司に目で挨拶して車に乗り込んだ。男は良い身なりをしていた。
「驚いてませんか?」
「はい?」
「いや、これね。黄泉の国に連れていくタクシーなんですよ」
「はあ」
「あんまり驚きませんか?僕はここに来て本当驚きましたよ」
「そうですか」
「なんかやり残したことが一杯あると思いましてね、ちょっと待って貰ってんですよ」
「はあ……それで何か見つかりましたか?」「これがなかなか思いつかなかったんですがね……失礼ながら、お客さんを見てると、随分稼ぎが良かったように見えましてね。それで思い出したんです」
「ほう。何を思い出したんです?」
「実はこっそりと小遣いを溜めてましてね。いつかパッと使おうと思ってたのに。誰にもそのこと教えてないので、このまんまじゃ無駄になっちゃうなぁって」
「なるほど」
「こんなことになるなら、さっさと使っておけば良かったなぁと」
「そうですか。それで何に使おうというんです?」
「いや、それはまだ思いついてなくて……」
「そうですか。私もね、実は随分お金を置いてきました」
「なんだかその口ぶりですと、かなりの金額みたいですね」
「まあ、もっと稼いでる人は居るでしょうけど……」
「いやいや、なんだか凄そうですね」
「いつ頃からかな、お金に実感がなくなってきて、ただの数字になってしまった。別に使い道があるわけでもなく……でも、減るのは怖いし嫌だし、でも、いくら数字が増えても安心できなくて、ただただその数字を増やすのに一生懸命になってました」
「まあ、でもお金はあって困ることはないでしょうし。どうして死んでしまったんですか?」
「ストレスですかね……。車でスピード出していて、少しぼうっとしてたらブレーキ踏むのが遅れたみたいです。衝突事故で」
「はぁ……」
「でも、これでようやく解放されます」
男は清々しい顔をして黄泉の国の門をくぐっていった。結局、浩司は自分がこっそり貯めていたお金が二百万円に届かない金額ということは言い出せず仕舞いだった。

浩司が来客を待ちながら車の中でうとうとしていると、細身長身の男が乗ってきた。
「どうもどうも、すみません。ちょっと待ちくたびれて居眠りしてました」
「いやいや、お待たせしました」
「そんな、お待たせとかそんなことではないですから」
浩司は笑顔で答えた。
「しかし、不思議なもんでしてね。ここに来て、暫く経ったと思うんですけどねぇ。時間も分からないし、何も食べてないんですけど、全然お腹空かないんですよ」
「そうですか。やはり死ぬと、食事を摂らなくてよくなるんですねぇ」
「そういうことですかね……そう言えば、思い出しました。近所にあったとんかつ屋、美味しかったなぁ。あれをもう一度食べない限りは死にたくないなぁ」
「あれっ、運転手さんは死んでないんですか?」
「いえ、その急なことでしてね。何が原因でここに来たのかも覚えてませんで。とにかくまだ死ぬわけにはいかないというか、微妙な立場でして」
「そうですか、なんか複雑なんですね」
「はは」
「それで、そのとんかつ屋は相当美味しいんでしょうね」
「はい、からっと揚がってましてね、お肉は柔らかくて肉汁が口の中に拡がって」
「そりゃ、美味そうだ。どちらの店ですか?」
「とんかつ三太ってとこですがね」
「ああ、あそこのとんかつは美味いですね。私もよく行きましたよ」
「奇遇ですねぇ。ご近所だったんですね」
「そのようですね。じゃあ、弥吉の寿司はご存知ですか?」
「いやぁ、お恥ずかしながら存じ上げませんねぇ」
「あそこの寿司は少し麹に漬けてましてね。ネタがまろやかで甘味が出てるんです」
「そりゃあ美味そうだ」
「鰻の川田屋はどうですか?」
「ああ、川田屋は聞いたことはありますが、私にはちょっと敷居が高過ぎて……行ったことはないですね」
「あそこは本当美味しかった……。でも親父の代から息子に変わって味が落ちたな」
「そうですか。しかし、こう考えると、私は全然美味しいものを食べてなかったなぁ。もっと食べておけば良かった。しかしお客さんもそれだけ美味しいもの知ってると死ぬのはさぞ心残りでしょう」
「いえいえ、そうでもないです……実は私、胃ガンになりましてね。それは摘出したんですけどね。転移が見つかって、ずっと抗がん剤治療です。食べた分を全部戻しちゃうんで食欲もなくなってしまって……」
「そりゃ大変でしたね」
「医療が進歩したせいでなかなか死ねやしませんでね。チューブに繋がれた生活で、ひたすら死なないために生きてきたようなもんで」
「はぁ……」
「最近ずっと食べ物のことなんか考えてなかったんですけど、今日は昔を思い出させてくれました。有難うございました」
黄泉の国に着いて男は車を降り、門に向かっていった。そして振り返って浩司に言った。「あの……川田屋の鰻は息子が継いでからも味は変わらなかったんだと思います。もうその頃、病気が進行してましてね。ちゃんと味わえる状態じゃなかったんです。ちょっと強がってしまいました」
そう言って、にっこり笑って門をくぐっていった。

浩司が停留所に戻ってくると一人の若い女性の姿が見えた。車を回して横につけると、女性が黙って乗り込んで来た。
運転しながら浩司がルームミラーに映った後部座席を見るとそこには見慣れた顔があった。
「聡美?」
うつむいていた女性が顔を上げる。浩司は車を停めた。
「えっ、お父さん?」
「お前なんでここに?」
「ここってどこなの?」
「お前も死んだってことなのか?」
「そうか、酷い事故だったから、やっぱり……」
「何?お前、事故起こしたのか?」
「覚えてないの?一緒に車乗ってたじゃない」
「えっ?」
「私が免許取って、お父さんの車を運転して……。お父さん助手席に乗ってたでしょう?」
「そうだっけ?」
「右折しているときに直進車がぶつかってきて……」
「それが覚えてないんだよ」
「お父さんは即死。私は暫く生きていたみたいだけどやっぱりダメだったみたい」
「そうか」
「全然覚えてないのね?」
「どうも頭を強く打ったみたいで記憶が飛んでしまったみたいなんだよ。それでお母さんは?」
「お母さんは車に乗ってなかったから。病室で顔は見たけど、私、声出なかったから話はできてない」
「そうなんだ。でもお母さんが無事で良かった……」
「ごめんね、お父さん。私のせいで」
「お前が悪いんじゃないだろ」
「バイトのお金入ったから、お父さんに鰻をご馳走しようと思って車で出掛けたんだけど」
「鰻か……。でも俺はのことよりお前はまだ死ぬのは早過ぎるだろ」
「そりゃ死にたくないけど」
「あのな、黄泉の国に行く途中に、百年に一回穴が開くらしい。そこに入ると現世に戻れるらしんだよ」
「でも百年に一回って」
「それがそろそろその時期らしいんだ。お前とにかく、それで戻りなさい」
「お父さんは?」
「えっ、そりゃ、まあ、お父さんも……」
「うん。じゃあ二人で戻ろうよ。戻ったら今度はちゃんと鰻ご馳走するから」
「はは。分かった分かった。じゃあ、穴を探さないとな」
前方に小さな色の濃い点が浮き上がり、それが徐々に穴になって拡がってきた。
「あっ、あれじゃない?」
浩司は車を停めた。聡美が車を降りて穴に近づいていく。
「お父さん、これよ、きっと」
浩司も近付いていった。
「これだな。どうやら言ってたことは本当だったみたいだ」
「じゃあ、お父さん、行こうよ」
「あっ、ああ。行こう。穴が小さいから一人ずつだな。聡美、先に行ってくれ」
「えっ、なんか怖い」
「怖いも何もこっちは死者の国なんだから」
「まあ……、じゃあ先に行くから、直ぐにきてね」
「分かった。あっ、ちょっと待って」
浩司は聡美を引き寄せて抱きしめた。
「どうしたの?」
「いや」
「なんか久しぶり。こういうの」
「ああ、そうだな……じゃあ、聡子、先に行って」
聡美が穴に入ると、さっと穴が閉じてしまった。
「元気でな、聡子。息子の代になって鰻の味が落ちたらしいから、鰻は要らないよ……」
振り返ると、元々の運転手の初老の男が立っていた。
「ああ、運転手さん」
「特に問題はありませんでしたか?」
「はい、問題はありません」
「穴は閉じてしまいましたね」
「はい。閉じてしまいました」
「どうですか?心残りあるようなら、このままもう百年運転手続けますか?」
「いえ、もう結構です」
「そうですか。整理つきましたか」
「あの、一つだけお願いを聞いて貰えるなら……」
「はい、私にできることなら」
「妻と娘がどうやって暮らしているか一瞬で良いので見させてもらって良いですか?」
運転手は少し笑みを浮かべて、右手を左右に振った。するとその部分だけ、霧が晴れて、下には浩司の自宅のキッチンがあった。妻と聡美が楽しそうに二人で食事を作っている姿が見えた。
「有難うございました。行きましょうか」
浩司は満足そうな顔で後部座席に乗り込んだ。車はゆっくりと黄泉の国に向かって走り始めた。

       (了)
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