送還まで~鉄の黒壁 【2000字歴史】

文字数 1,999文字

 我々は備後福山の牢獄に住んでいた。住む、とは言いたくないが、五年も経つとそう言いたくもなる。拷問も農作業も、日常になっていた。
 
 茂市さんたちが連れていかれたのが明治元年の五月だった。十二月に我々は船に乗せられ、寒空を進んだ。海は比較的穏やかで、肥後のように島が沢山見えた。
 下ろされたのは、長崎に似た港の近くに山が迫る町だった。木々の間から立派な仏教寺院の塔が見え、美しい。こんな美しいところで、これから拷問が続くのか。
 縄に繋がれた七十六人が縦に並び、数里歩く。大きな城が見えた。そこのお殿様は阿部様。幕府要人だ。そこが備後福山であることも分かった。

 鉄で覆われている黒壁の天守が見えるところに牢獄はあった。
 「虎之助?」
と農作業中に呼ばれ、茂市さんたちも近くにいることが分かった。浦上から合わせて九十七人がこの地に来ている。先発組とは農作業の時に一緒になることがある。再会を喜びあう余裕はないが、こっそりやりとりするくらいは出来た。既に一人が命を落としているとも聞いた。そして我々は日々、取り調べを受けた。
「はよ、転べ」
「ここから出たいじゃろが?」

 明治二年の梅雨。この町も雨が続く。阿部の殿様が牢を見に来られた。直接我々に話しかけられるようなことはない。が、殿様の口から聞こえた言葉が、記憶に残る。
「ここにおる輩も、いずれはどうなるんじゃろうのう……」
 不意に聞き取れたその言葉の意味を、考えていた。殿様のことは知事と呼ぶように教えられた。牢番や小姓の恰好が、なんだか南蛮人のそれに似てきた。少しずつ何かが変わっていった。しかし、拷問と農作業は続いた。
 明治四年、知事が矢野に替わった。今度は権令と呼ぶらしい。阿部の跡取りが断絶した訳ではないという。矢野は異人の恰好だ。頭に髷はなく、大きな筒を載せているのは滑稽だ。矢野は阿部よりもよく牢に来た。
 ある日、矢野の声が聞こえた。
「ここにおるっとは、肥後のもんね。いつまで続けっとやろうか」
懐かしい、九州の響きだった。そして、二年前の阿部の言葉と重なった。外では何かが変わっているのだろうか。

 これも後で知ったことだが、その頃大久保卿たちは、幕府が締結した西欧各国との不平等条約の撤廃と政治経済全般における協力関係を築くべく、奔走していた。しかし、彼らの信ずるキリスト教を禁じるばかりか、その信徒を迫害していると大いに非難されていた。明治政府は、これを容認する方向で調整中であった。
 しかし我々は知らない。あの壁を見ながら、日々牢番から、転べ、捨てろ、と言われ、叩かれ殴られ続けた。逃げ出した仲間は二人。消息は不明だ。

 明治五年が途中で終わり、急に正月になった。暦をイエス様の誕生日に合わせたのだという。禁教の国でそれはおかしいと思ったので、信じなかった。黒い壁は、我々を阻んでいるはずだ。
 元旦早くから、矢野権令が牢の前で番人に何か命じていた。それからは、幾分か丁寧な言葉使いになった。殴る力が、少し弱くなった気がした。女子(おなご)には明らかに手加減しているようだった。

 二月の寒く晴れた日。藺草(いぐさ)の田植え作業は足が冷え、腰も痛む。小田県となったこの地で、藺草から畳表(たたみおもて)を作るという。
「お前らなあ、そのうち長崎に帰れるぞ」と見張りの小姓が言う。
 正式な命令は未だだが、今日太政官布告によって、禁制の高札が下ろされたという。
「じゃけえ、あとちょっとでわしもお役ごめんじゃ。今までのことは恨むでないぞ。早めに教えたんじゃけえ」
 備後の言葉は随分と聞いたが、まだ馴染めなかった。しかし、今日は爽やかに耳に入った。

 そんな話を聞いた夜、高熱を出していた老人が死んだ。浦上に帰れるまで、もう人数は減らしたくない。

 小姓の言う通り、三月から拷問がぴたりと止んだ。牢からは作業の時しか出られないのは変わらない。貧相な食事も変わらない。が、見張りの者たちの表情は変わった。安堵しているような、それでいて卑屈になっているような。話すことは滅多にないが、この者たちも我々を憎いと思ってやっていた訳ではなかったのだろうと思えた。

 三月二十九日、我々は鉄の天守を見ながら山陽道を尾道へ向かった。五年前と違い、縄で繋がれてはいない。八十七名が一つの船で瀬戸内海を進む。浦上に帰ろう。デウスは、ついに我々に微笑んだ―

(参考)
慶応3年7月 浦上四番崩れ
明治元年5月 茂市ら21名が福山へ
明治元年12月 虎之助ら76名が福山へ
明治2年6月 版籍奉還 福山県設置
明治4年11月 旧佐伯藩士 矢野光儀が深津県(翌年小田県)権令に
明治5年12月2日(1873年12月31日) 天保暦最終日
 翌日を明治6年1月1日とし、グレゴリオ暦開始。
明治6年2月24日 禁制の高札を撤去
明治6年3月16日 浦上への送還決定
明治6年3月29日 福山を87名が発つ。
明治8年12月10日 小田県が岡山県に併
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