十七時十五分からの【課題文学賞その九】<銀行員シリーズ>

文字数 1,979文字

十七時十五分。仕事を終える女性たちが一斉に立ち上がった。彼女たちは賑やかにフロアを後にする。多くの派遣社員が去ったオフィスは一見平穏だが、一つ一つのデスクではより激しい戦いが繰り広げられる。今、ロンドンは午前八時十五分。正社員だけが、彼の地からの情報を処理することになる。
「難波、ユニシーバの子会社売却の件は……」
 質問された俺は、一時間ほど前にプリントアウトした資料を手にして課長に差し出した。
「ブルースパークの企業情報ではこの子会社、結構な額で行きますね」
「その分の配当が臨時で出るのだろうな」
「そうなるとまた評価額が変わりますね、課長」
「うむ、発表からできるだけ間隔を開けずに変えていきたいが……」
 俺は課長の顔をちらりと見る。多分この人は早く帰りたがっている。
「課長、大丈夫ですよ。僕らの仕事は決算までに資産評価をきっちり仕上げること。最新情報の反映は義務じゃないです」
「確かにそうなんだよな。運用サイドがこっちにいろいろ問い合わせてくるが、我々の仕事は本来そこじゃない」
「なので課長、今夜は僕らだけでなんとかしますよ」
「そうか。すまんな。実は今夜、妻の誕生日でな。ホテルのレストランを予約していて」
「そうなんですか、おめでとうございます」
 突然後ろから声がした。同じ課の北川さんだ。
「おお、北川くん。有り難う。じゃあ、失礼するよ」
 こういうところで上司にすり寄るのはいかにも銀行員である。いずれは俺も彼のようになろう。と思わなくもないが、そう思ってはや三年。努力もせずに変われるはずはない。
「北川さん。課長、嬉しそうでしたね。じゃあ、ヨーロッパの方、今夜は頑張りましょう」
 俺はそう言って笑顔を作るが、肝心の北川さんは俺に一瞥をくれただけで向こうの島に行ってしまった。あそこは彼が懇意にしている岩橋という女性がいる。
 全く仕方ねえなと思っていると、モニターに新規の通知がどんどん増えていく。SWIFTを介したヨーロッパからのデータだろう。この部署がやっているのは当行が運用するファンドの資金を管理すること。管理と一言でいうとなんとなく分かった気になるが、実際に行うことは日々のカネや資産、つまり保有する株式や債券の出入りと評価額を記録することだ。それは正確な年一回の運用報告書を作るためなのだが、運用を行うファンドマネージャーたちは、日々の状況を把握していない。どうせ毎日入力されているのだから、それを利用すればよい、と考える。そんな仕事は、一件ずつの小さな情報の積み重ねだ。新規の情報を一つ一つ確認しながら、今夜はいつもより忙しそうだな、と改めて覚悟する。
 そして電話が鳴る。英語かもしれない、と思うといまだに身構える。支店時代、電話は三コール以内に出るものと厳しく指導されたが、ここでは二コールほど増やしてしまう。
「あー、ロンドンのマイクです。ヨウスケさんですか」
 現地で日本語ができるスタッフからの電話だった。俺は安心して要件を確認する。オランダのフィリッポスがドイツにある会社を吸収合併する。合併相手の株式を零点三八倍してフィリッポス株に転換する必要が生じたのだという。
 計算は自動でできるはずだが、その確認を行う。コンピューターがちゃんと計算しているかを見るだけなら実にバカバカしい作業だが、現地で株式を預かり保管する銀行が実際にその作業を行っているのかも確認せねばならない。それがあって初めて、ファンドの中身が保全されたと言える。すべてのファンドが保有する吸収相手の株式を確認するのは、今晩だけでできる作業ではない。が、できることはやってしまわなければならない。
 北川さんが自席に戻ってきた。この部署ではベテランの北川さんにフィリッポスの件を報告しようとしたが、北川さんは別の電話に出てしまった。
「まあ、どうせ夜は長い」俺は一人呟いて、ビルを出た。今のうちに何か食べておかないと、とても残業なんかできない。
 朝八時三十分から九時間以上経ってようやくの空。もう日が暮れそうな冬の空。木枯らしが俺の体にぶち当たる。すぐ近くだと思い、コートを着てこなかったことを悔やんだ。

 週に三回は通うラーメン屋で食券を買い、カウンターに腰かけた。この辺りはいわゆるオフィス街ではなく、倉庫や工場が立ち並ぶエリアだ。この時間になると、俺のように一人で来ている男性客がほとんどである。が、この日は様子がおかしい。俺の背中から、若い女性の声が聞こえてきたのだ。
「へえ、これが人気のラーメンなんだね」
 連れの男が続ける。
「そう、俺は毎月一回は食べに来る」
「すごく脂っこいし、しょっぱいね。女の子には人気なさそう」
「でも、最近人気だから、来たかったんだろ?」
「うん、でも、大きい声じゃ言えないけど……年一回くらいにしてね。私、心配よ」
「ははは、ありがとう」

 【了】
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み