付添い父さん 【三題噺2】<医療現場シリーズ>

文字数 2,609文字

「まいったなあ」
 思わず天を仰ぐ。そんな私に構わず、目の前にいる白衣の男は続ける。
「付き添いは、されますよね? お母さん、来られますかね?」
 いや、それが無理だから余計に困っているのだ。妻は出張で北海道にいる。それで仕事を放り出して帰ってきた私が、ここに連れて来たのだ。立て続けに五回吐いてぐったりしている娘を、救急外来に。

「やっぱり、入院じゃないと難しいでしょうか?」
 だからそう言われたのだということは分かっている。でも、確認したい。
「まあ、家でこまめに水分を摂って行けば、なんとかならないことは無いですが……。きっとお嬢さん、しんどいですよ?」
 そう言われてしまえば、仕方が無い。
「では、はい。お願いします。で、先生? 期間はどのくらいになりそうでしょうか?」
 白衣の男はディスプレイに向き合ったまま、事務的に応えてくる。
「うーん、一般的には三日以上、ですね。まあ人によっては一泊、逆に長い人で一週間ってとこでしょうか」

 妻の出張は三日間の予定だ。連絡すれば切り上げて戻ってきてくれるとは思う。が、今の時代にわざわざ出張しなければならない案件がある訳だ。つまり、ここで彼女が戻ってくるような事態を避けるのが、家族の、夫の役割だ。苦しんでいる娘を責めるのは勿論筋違いである。夕方預かってくれていた母を責める訳にもいかないが、嘔吐下痢症っていうからには何か口にしたのだよな。いや、保育園で流行っていたという話だから、そっちのせいだろう。母も父の介護をしなければいけない。だから孫娘の付添いなんてとても出来ない。そう、ここは私がやるしかない。

 スマホを取り出し画面をみると、妻からのメールが届いていた。受信を知らせる音には気付かなかった。やはり私も気が張っているのだ。ひたすら謝り調子の文面を見て、却ってこちらが情けなくなってきた。そんなにも、子どものことを夫に任せてはいけない、と思っているのか。ちょっと意地になった自分を意識する。時刻は二十一時を回ったところだった。まずは会社に連絡を入れねばならない。おそらく隣の為替管理課はまだ仕事中だから、誰かは出てくれるだろう。

「外国税務課の村上ですが、ちょっと子どもが入院しなくてはならなくて……」
「ああ、どうも。岡田です。村上さん、大変ですね。分かりました。外税の方に伝えますよ。しっかり看病してあげてください」
 岡田くんは自称イクメンだが、いつも残業しているように思う。まあしかし、急な休みをすぐにとれるとは、良い時代になった。数年前とはいえ、自分が岡田くんくらいの頃はなかなか大変だった。まあでもどうせ明日は、村上が休んだせいで……という話が出てしまうのだろうな。そして私の有給休暇は自動的に消費されていく。

 多少苦々しく思いながらも、看護師さんの説明にふんふんと頷く。術衣というものを貸してもらえるそうだが、カネがかかる。ここで疑問が生じた。着替えを持ってきてもらうって、一体誰が届けてくれるというのだろう。例え私が帰っても、娘の衣類を揃えてくる自信がない。そもそも私は病院から出ていいのだろうか。一気に不安で脳内が支配される。その時カーテンの向こうから娘の泣き声が聞こえてきた。そうか、点滴するんだよな。頑張れ、娘。そして先生、頼みます……。


 病室には、個室と大部屋があるらしい。個室はこれまた別途料金がかかる。できれば大部屋を、と希望するが看護師さんが難色を示す。大部屋のベッドに一つ空きがあるようだが、他のベッドにはすべて母親が付き添っているという。なるほど、確かに嫌だよなあ、と思うが、それで私たちが個室代金を負担するのは筋違いな気もする。ちょっと怒り気味に、個室でいいですと伝えた。まあ、その方がシャワーも気兼ねなく浴びることができるし、と納得しておいた。



 痛み、嘔気、不安。「ママがいい」と連呼し、貴重な水分を涙で喪失する娘がようやく寝付いた頃には、日付も変わっていた。書類を書いたり、設備の説明を受けたりと、意外に慌ただしい。そういえば付添いは、形式上こちらから病院に許可を求めるものらしい。なんだかなあ、と思いながらも事務仕事には気合が入る自分。それにしてもこんな調子だと、夜中に大部屋へ新しく入るのは同室の方々に迷惑だなあと意識してしまう。追加料金にまだ未練があるからそう思うのか。それに気付き、苦笑する。院内のコンビニは午前一時で一旦閉まるらしいので、自分の食事を買いに行かねばならない。私も退社後、何も口にしていなかった。

 こんな時間のコンビニに残っているものなど、たかが知れている。レタスのサンドイッチ、昆布のおにぎり、具のないパン……。仕方が無いのでカップラーメンを買った。乾燥野菜が多めのものを選んだのは、さすが私だ。しかし旨そうなスープの香りが娘にはきついかもしれないので、こども病棟の隅っこにある狭いラウンジで啜ることにした。蓋を開け、お湯を注ぐ。こんな状況でも、この三分間は待ち遠しいものなのだな。詩人のような気分でいると、明るい黄緑色のスウェットを身につけた女性が私と同じようにお湯を入れに来た。きっと付添いのお母さんだろう。新参者として挨拶をする。
「こんばんは。ラーメンですか。この時間はこういうのしかないですよね」
 こちらを向いたその女性、淡い口紅と薄化粧が映えている。表情はやや疲れているが、それがむしろ共感を呼び、魅力的だった。
「そうですね。あっ、同じドカ野菜ヌードルですね」

 眠い時間だと思うが、気さくに話しかけてくれた。私は入院も悪くない、と不届きにも思っている自分を急に恥じた。幸いにも彼女は、お湯を入れたカップを持って、病室へと戻って行く。後姿が妙に美しい。コーラのボトルって、それがモデルだったよな、などと思い出す。その満月のような臀部をボーッと眺めていると、彼女は廊下を右に曲がっていった。私と同じ方向だ。カップ麺の匂いを考えると大部屋では食べないだろうから、おそらく個室。もしかすると私たちの隣かもしれない。

 恥じたはずの自分だが、急いで麺をすする。早く食べ終わったところで、戻るのは個室なのだから関係ない。ここで食べているうちに、娘が覚醒し泣き出してしまうかもしれない。などと言い訳を考え、目元が緩むことを自覚する。ああ、ダメオヤジ。


 娘の回復と妻の出張の成功を願いながら、私はスープを飲み干した。

[了]
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