まっすぐ進め 【課題文学賞3】<銀行員シリーズ>

文字数 1,436文字

 良く晴れた午後。俺は扉を開け、柵の中へと進む。皆の声を背中に浴びながら、一歩一歩。

 後輩たちが口々に言った。難波さんがやらないと始まりませんよ。後に続きますから、先陣をきってください。そして重なる女性陣の黄色い声援。そうか、俺がやるしかないのか。よしっ。

 そうして鉄の板を踏みしめる。板と板との間は中空だ。風が吹き込み、足元が揺れる。上っていくに従い、太ももが痛くなる。同時にふくらはぎが震えていく。下は見るな。そう思えば思うほど、足元が気になる。曲がり角には木の枝が入り込んでいた。随分な高さに来たのだろうか。眼下に、同期女子のカチューシャが見えた。結構小さくなってしまった。ということは、地上から何メートルの場所に来ているのだろうか。いや、考えるのはよそう。そして俺はまた、自分の足を一段上の鉄板に載せた。

 手すりを握る右手が滑る。ここまで登ってきて、転落するわけにはいかない。いや、そんな恐ろしいことは絶対に嫌だ。左には鉄柵があり、段差の隙間は狭い。なので落ちるはずはないのだが、やはり怖い。意識すればするほど、手のひらが汗ばむ。靴下も同時に湿ってくる。ああ、もう……。

 ゆっくりと登りながら、俺は昔を思い出していた。当時の彼女と観覧車に乗った日のことだ。俺は順番が近づくにつれ、乗るのが恐ろしくなってきた。彼女は嬉しそうに、床がガラス張りのゴンドラが当たることを待ち望んでいる。冗談じゃない。普通のゴンドラですら乗りたくなかった俺は、逆のことを願っていた。が、彼女の望みは叶った。ゴンドラの中の俺は、終始言葉を発することができなかった。そんな二人がうまく行く訳はなく、就職を前に俺は放流された。そしてそのまま先輩になってしまい、社員旅行にやってきた。大勢で来たはずの山の上にある牧場で一人、何故か階段を上っている。ビビっているところはそのままに。

 しかし、物事には終わりがある。ついに階段が尽きてしまった。これ以上の高さに行く必要はない。すぐそこに見える青空。開放感を感じたのも一瞬のこと。やはり足がすくむ。股間に悪寒が走る。本気で怖い。ここを歩ける訳がないだろう。と、一人の女性がそこにいることに気が付いた。見たことのあるキャラクターを背中に描いたウインドブレーカー。優しそうな顔を、風になびく髪が覆う。その横風に、俺の体も流されそうだ。ううっ、勘弁してくれ……。

 おそらく真下では後輩たちが笑っているだろう。先輩や上司も俺の姿をみて楽しんでいるに違いない。こんな俺をみて喜んでくれるなら本望だとも思うが、この雄姿も見ずにどこかへ行ってしまったかもしれない。そうならば悔しいが、誰か一人くらいは心配してくれていないだろうか。同期の石井さん辺りが……。

 そんなことを考えていると、先ほどの女性が俺の胸と腰に手を回してきた。カチッと音がして、体が締め付けられる。もう逃げられないのか、との諦め。しかしまだ間に合うのではないかとの淡い期待。その時、耳元でささやかれた。準備ができました、と。

 俺はすがるように、彼女に問いかけた。ここで止めて、降りていく人はいますか?

 彼女は表情を変えずに、即答する。いや、落ちた方が早いです。さあ!

 もうだめだ。目の前には、青い海。周りは透き通るような空。眼下に映える木々の緑。そして牧場ののどかな光景。

 大きなマットが置かれている、真下を見るな。まっすぐ進め。

 網目の床がきしむ。
 そして、途切れた。



 せえのっ、バンジー!

 【了】
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