三つの一番 【課題文学賞その四】<銀行員シリーズ>

文字数 2,190文字

 男きょうだいの中で育った。だから戸惑いの連続だった。可愛いのは当たり前だし、その分、甘やかしているのだろう。もしかしたら間違ったことも教えてきたかもしれない。そうした不安もあるが、一人娘の渚は立派に成長している。今では幼稚園の年長さんだ。園の先生や他のお母さんからの評判も良いらしい。費用はかかるがピアノと絵画を習わせている。妻が子どものころ通っていたという話を聞き、渚自身が希望した。どちらも楽しそうに、ほぼ休まずに行っている。そしてピアノは県レベル、絵画は時々全国区の賞をもらってくる。さすが俺の娘、と誇らしい。が、実際のところ俺はピアノは人差し指でしか弾けないし、絵は落書き程度。本当に俺の子か? と思うこともある。いやしかし、渚の顔立ちは間違いなく俺に、もっと言えば俺の母親に似ている。間違いようはないだろうし、妻を疑う要素はこれっぽっちもない。

 そんな渚を怒ったことは一度もない。きっとこの先もないだろう。いい子だから、おねだりもあまりしなかった。その分、誕生日やクリスマス、更にはひな祭りなどにプレゼントを弾む。渚が喜ぶ顔はまさに天使だ。俺はその笑顔を見るために働いている。いや、俺の人生はここに到達するためにあった、とさえ思う。幸せとは、こういうことなんだろう。だから幼稚園のお友達が持っていると言う玩具や洋服を欲しがる彼女をみて、俺は言う。「渚、我慢しているんだね。お父さんが今度のお休みの日に買ってあげるよ」それを聞いたあと、涙も拭かずに俺に駆け寄ってくる渚。「パパ、嬉しい」すべすべの頬を俺の髭面に擦り付ける。「痛いけど、大好き!」ああ、もう、本当に幸せだ。娘の笑顔を見るのが一番の喜びだ。男ばかりの子育てをしてきた父には申し訳ない気持ちになるが、渚の気を引くためにカネを惜しまないじいじはきっと悪影響だ。俺のように、しっかり状況をみて買い与えるのでないといけない。だから実家にはあまり行きたくないのが本音だ。妻も母には会いたくなさそうなのでちょうど良い、と俺は思っている。

 俺はしかし、一介の銀行員に過ぎない。近所ではおそらく、ちょっとした高給取りだと思われているだろう。だが、決してそんなことはない。むしろ世間体や不文律に縛られ、自由に生活できていないのではないかとさえ思う。しかも不景気とより一層のコンプライアンス重視、更には働き方改革の推進と感染症対策。渚以外に、俺の楽しみはない。

 それでも飲みに出る機会は皆無ではない。これでも俺は法人営業の担当だ。つまり接待の機会がある。される時もする時も、お客様と銀行の利益を第一に。俺はそう誓ってグラスを傾けるのだ。

 そんな接待で使う店のひとつが「COSTA」だった。スペイン語で海岸という意味だ。ちょっとクセのあるママさんだが、馴染みになってしまえばしっかりこちらの目的に沿った動きを取ってくれる。本当はマズいはずの、顧客の情報提供もやってくれる。だから俺がここでやった接待の成功率はすこぶる高い。そしてCOSTAでの俺はデキるサラリーマン。経費で落とすこともあり、羽振りも良い。そんな俺が、お店の女の子に目を付けられるのも、自然な流れだったのだろう。

 その子の源氏名が、奇しくも「ナギサ」だった。学生時代に付き合っていた彼女に似た小柄な童顔。そう、俺の好みだ。自称ではあるが妻よりも十五歳若いナギサにねだられ、接待が無い日もCOSTAに通い始めた俺だが、週に一度、しかもたった二時間に限定しているのだ。その短い時間に、ナギサは特上握りとフルーツ盛を注文し、パーティー券を俺に売りつける。ここの特上握りが隣のコンビニに並んでいたものであることは、以前ママから聞いて知っている。でも、いいんだ。自腹であっても、俺は気前がいいところを見せる。楽しい時間を過ごせるのが一番なのだ。俺の右隣に座って体を摺り寄せてくるナギサの頼みは、何でも聞く。そうすることで密着度は増す。恥ずかしい話だが、下半身が熱くなる日もあった。いや、アフターや店以外での面会は、決してしない。今晩も大丈夫。二時間だけならそんな話にはならない。そして俺は酔った頭で電卓をたたく。そう、大丈夫だ。今週も小遣いの範囲内。時間もまだ二十一時三十分。今から帰れば、ギリギリ渚も起きているだろう。

 社宅の階段を上り、玄関のドアを開ける。そのとたんに渚が抱きついてきた。が、「パパ、お酒くさーい」と言って逃げていく。にっこりして追いかける俺を妻が睨む。「あなた、ちょっと」

 渚にお休みを言って、妻とリビングで向き合った。何となく気まずい空気であることは、酔った俺にも分かる。まさか、ナギサのことがバレたのか? でもなんで今日なんだ? 鈍った頭を回転させながらコップの水を飲み干す。「これなんだけど……」

 妻が差し出したスマホに表示されていたのは、高級そうなブランドもののコートだった。三十万円近くするようだ。なるほど、これを冬のボーナスで買ってくれ、という話か。利き手ではない左腕で妻のスマホを受け取り、画面をスクロールする。もっと安いものも沢山あるようだが、確かにこれはモノがよさそうだし、何より妻に似合う。そうだな、妻が幸せでいることが一番だ。もしかしたらこれで許す、という意味かもしれない。ちょっとビビった俺は、厳かに「いいだろう」と答えた。

【了】
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