忘れられない理由【課題文学賞その六】

文字数 1,999文字

 田中には妬ましい男がいた。都会の進学校出身というだけで、田舎の大学では注目される。やはりオシャレで聡明な気がする。入学直後にあったクラス対抗のソフトボール大会で、四打数三安打の大活躍をしていた。そして学園祭のクラス代表を率先して引き受けていた。女子からの人気も大したもので、田中と同じ高校出身の岡崎聡子もその男に惚れているようだ。もっとも岡崎なんて、田中にとっては女じゃないということらしいが。

 どうすれば皆の視線を集めることが出来るのだろう。田中は地元のことには多少詳しいが、大学生が遊ぶようなところは知らないし、車もまだ持っていない。そもそもこの田中健一という名前がいけない。目立たないように生まれ育つ運命を背負わされている。こうなると将来も平凡に決まっている。このままいくと就職も県庁や市役所、あるいは地方銀行だろう。堅実ではあるが。きっとあいつは都会に戻って、海外に赴任するような企業に勤めるのだろう。

 自分の部屋で寝そべりながらいつものように悶々と逡巡していたその時、田中は思い立った。そうか、海外! それから田中はバイトを掛け持ちしてカネを貯めた。大学の講義に出られないときもあったが、おそらく誰からも気付かれていない。気楽と言えば気楽。二か月間働きまくって、デリーへのチケットを手に入れた。

 インドでの一か月は本当に充実していたらしい。無事に帰れたからそう言えるのだが、つまり怖いことや不思議なことも経験した。これらの話を披露すれば、少しは注目されるだろう。そんな期待を胸に、田中はまだ夏の日差しが残るキャンパスに戻った。
 するとどうだ。皆が田中に寄ってくる。インドの話を聞いてくれるだけでなく、普段の彼を知ろうとしてくれる。日焼けし、髭を蓄え、少し痩せてしまったからだろうか。田中を囲むのは男だけじゃない。そして、岡崎聡子もその輪に入っている。まあ、岡崎なんて近くにいてほしい訳じゃないらしいのだが。でも田中は、毎晩のようにどこかの飲み会に誘われ、おかげで忙しい。いや、忙し過ぎる。都会から来た男、綾小路武文も依然として人気があるようだったが、その時の田中は、おそらくそれに近い生活を送れていただろう。

 銀杏並木が色づく頃、田中は岡崎聡子の部屋に呼ばれた。岡崎は地元民でありながら大学の近くで一人暮らしをしている。実は小学校以来の女子部屋進入であり、極度に緊張していた。そんな田中に岡崎は尋ねる。
「田中くん、なんか見かけ以外は全然高校の時と変わらないのに、急に人気が出たよね?」
「ああ、大学生に適していたんだろ、俺、たぶん」
 そう答えたが、岡崎が高校時代の田中をどのくらい意識していたのか、本当のところは怪しい。
「それで……そんな田中くんのこと、知りたくなって……」
 彼女の部屋で二人っきり。この状況に田中は身構える。大体こういうのは裏がある。その気になったところで、綾小路や他の女子が出てきたりするんじゃないか? いや、そもそも田中にそんな度胸はない。

「インドで何かあった?」田中の目をのぞき込んで岡崎が尋ねてくる。そう聞かれると、真面目に考えてしまう。確かに、田中は依然として引っ込み思案で、特に何かに秀でている訳ではない。中身は何も変わらないのに、急に人が集まりだした。そしてそれは、インドから帰った後のことだ。

「実はさ、これが理由かは分からないんだけど……」田中がゆっくりと話始める。
「ヴァラナシっていう有名な街から、自転車タクシーみたいなのに乗って森に行ったんだ。そこでさ、変な修行者らしき男がいて、日本語で話しかけてくる。自転車タクシーの運ちゃんは多分、グルだ」岡崎の息を飲む音が聞こえた。
「それで、その修行者がね、急に何か唱えだして、『お前の悩みは分かる。それを解決してやろう』って言いだして。ヤバそうだけど、逃げ出すのも無理っぽいから、黙ってその場にいたら、頭に手をかざされて、ずっと何かつぶやき続けて」
「かなり変だね、それ」岡崎も興味津々のようだ。
「で、こう言うんだ。『これでお前は誰からも忘れられない人物になった。また新たな悩みができたとき、ワシを思い出せ』」
「おカネ、払ったの?」
「千ルピー。まあ、二千円くらいだから、逃がしてくれるなら」
「本当にそれが原因なら、その修行者、すごいね。でも今の状態は、どう?」

 田中は自覚していた。今まで通りの冴えない自分が注目を集め、引き上げられても、やがて実力は露呈するだろう。そして結局は元の立場に戻るだろう。いや、失望されその地位はより下になるのかもしれない。ならば印象の薄い田中健一のままでいる方がどんなに幸せか。
 元の自分に戻るため田中がインドを再訪したのは、翌年、つまり去年の夏だ。
 僕の記憶に残る田中健一は、ここまでだ。


 その田中がインドで逮捕された。インドの山奥で大学の同期、綾小路を殺めたという容疑らしい。
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