あたしの朝【三題噺その六】

文字数 1,998文字

 ジリジリジリジリ……
 金属が触れ合う音。あたしは音の出所を探りあて、裏返してツマミを下げた。うーん。布団の中で体を伸ばし、再び瞼を閉じる。
 その刹那、ハッと思い起こす。朝だ、起きなきゃ! 健康を意識して日曜日に買ったアナログの目覚まし時計を確認し、あたしは布団を蹴って体を起こした。よし、カーテンを開けて、朝の光を浴びるぞ! あたしの体に太陽の力が充填されていくような気がしてくる。バッテリー表示はフルね。そう思った自分が、いかにスマートフォンなどのデジタル機器に囲まれてきたかを表しているようだ。寝起き眼で苦笑いしながら、シャワーを浴びた。窓を染める朱鷺色が美しい。この色を見られるのも、得だという三文の一部かしら? と思いながら体を拭き、髪を乾かした。
 眠る前にスマートフォンを遠くに置き、目を覚ましてからも触れずにいるのは、確かに心地が良い気がする。夜中に緊急連絡がなかったかと確かめたくなるが、まあ、焦ることはないだろう。
 ドライフルーツとシリアルとに無糖のヨーグルトをかけてゆっくりと味わう。本当は朝食もお米と焼き魚、そして味噌汁などにしたいのだけど、そこまでは無理みたいだ。片付ける時間も勿体無い。一人言い訳しながらあたしは玄関を出る。ドアには二か所鍵をかける穴があるが、今日も上の方だけを回す。二か所ある意味が良く分からないけど、寝る前は内側から両方回しているあたし。変なの、と思いながら早足で歩きだす。結局時間がなくなるのは今までと同じか。
 駅まではゆっくり歩いて八分ほど。このペースなら五六分だ。ヒールの音が荒々しいリズムを奏でる。ふくらはぎや足の甲が痛くなるのだけど、ちょっとキャリアウーマンぽいかと思ってしまう。余裕がない、あるいは周りに興味がない風に見えていないだろうか。そんなことも考える。というのも、この先の角でいつも視線を感じるせいだ。

 あたしが駅へ向かうこの時間。それは近所の中学生が丘の上の学校に向かう時間と重なっている。正確にいうと、部活の朝練の子たちだろう。あの角がカバーに入ったバドミントンラケットを背負う男の子三人の集合場所になっているみたいだ。高校までバドミントン部だったあたしも、同じヨメックスのラケットを使っていたので親近感を持っていた。そしてそのうちの一人、一番背が低くて弱そうな子。その子の目が、いつもあたしを追っているように感じていた。モテない女の自意識過剰? 年下に手を出そうとするおばさん? どっちでもないと思うけど、まあそれは見る人が決めることね。ただ、もしあたしなんかに憧れを持ってくれるのなら、その思いは大事にしてあげたい。ちょっと上から目線だけど、そう思っている。

 それはバレンタインデーの朝だった。あたしは会社に未だ残る義理チョコ制度と、その後定着してしまった友チョコ制度に従うべく、パンパンに膨らんだ紙袋を持って駅へと急いでいた。その日も中学生はあの角にいた。二人。あと一人を待っているのだろうが、例の子は当然すでに来ている。この紙袋に何を思うかなあ、と想像しながらも歩速を緩めずに進むあたし。そろそろすれ違わんとするところに、自転車で女子生徒がやって来た。そしてその子たちに小さな箱を渡している。大きめの光沢のあるスポーツバッグを肩から下げ、その端にグリップを覗かせている彼女。同じ部活なのだろう。そうか、そうよね。二人同時に渡しているから義理チョコだろうけど、なんだかジェラシーを覚えた。情けない勘違いおばさんに、突如成り下がったような展開。あたしは紙袋から伸びる取っ手を握り直し、歩くスピードを上げる。

 電車の中で、もう一人のチョコをもらえなかった男の子のことを考えた。義理チョコももらえない部員か。それともその子が本命で、別の箱を渡すとか? 話したこともない中学生のストーリーを勝手に脳内で構成するあたし。甘酸っぱい青春小説が作れそう。心の健康ね。それを見守る女性教師を登場させて、あたしの視点を入れようかしら。いや、あの女の子が飼っている犬がこの話を語る、という設定にしてみようかな。こういうときはしかし、犬より猫がふさわしい気がする。やはり明治の文豪の影響だろうか。ただし子どものころから猫アレルギーのあたしは、猫を知らない。近付くと症状が出る。アレルギー治療の基本は避けることと慣れること。でも、慣れるなんて、無理。だからやっぱり書けない。ああ、世の猫ブームが疎ましい。

 女性職員が早めに来て、テーブルを拭き、花に水をやる。いまだにそんな職場。チョコの紙袋をデスクの隅に置いて、朝のルーチンをこなそう。既に先輩が出勤していた。バレンタインで気合いをいれているつもりかしら。でも、とあたしは構える。仕事モードね。

「先輩、ごめんなさい! 遅刻しちゃいましたあ」
 猫を被ってもくしゃみや痒みが出現しないのは、安心だ。
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