母の論文 【三題噺3】

文字数 1,998文字

 奈都子に案内され、俺はドアを開けた。一番奥のかび臭い部屋までたどり着き、奈都子が言う。「あなたが探しているデータ、多分ここに……」


 奈都子は中学時代の同級生だが、高校受験の直前に九州へ引っ越していった。優秀な女子だったので、きっと大学に進学するとは思っていた。が、まさか研究者にまでなろうとは。


 俺は地元で医師になり、県内でも大きい病院に勤めている。気になる症例があり、検索していくと一九九〇年代の論文にぶつかった。古い論文の中には、ネットで無料閲覧できるものもある。その論文の著者名には見覚えがあった。旧姓だったので少し自信がなかったものの、所属大学などを確認し、それが母であると確信した。そしてその論文の掲載から二年後、俺を残して母は逝った。

 ただこの論文、どうも俺の考えとズレがある。随分昔の日本語文献であり、今回俺が書くとしても引用する可能性は低い。が、やはり気になる。ホームページで確認すると、この生理学研究室は現在も続いており、当時と同じく膵酵素に関しては国内でも有数の実績がある。だがこんな昔のデータを確認することなんて、流石に難しいよなあ、と俺はディスプレイから目を逸らし、体を伸ばした。その瞬間、いままで気にも留めなかった名前を見つけることになった。それが小笠原奈都子だ。こちらは同じ姓のままだったので、すぐにピンと来た。彼女が引っ越したのは確かにこの大学のある県だ。そのまま残って、研究しているようだ。医師ではないのかもしれないが、とにかくあの頃の母と同じ研究室に、奈都子はいる。
 
 三年前にあった中学の同窓会。確か奈都子はメッセージをくれ、居酒屋で読み上げられていた。あの時の名簿に、連絡先もあるはずだ。古いメールを探し出し、開いてみた。確かに奈都子は、その大学の生理学研究室に所属していた。自分の記憶に残っていないのは……そうか、かつてのアイドル、史子に付きまとっていたんだ、と苦笑する。

 奈都子にショートメールを送ったところ、すぐに返事が来た。おそらく研究室の奥に眠る、埃を被ったパソコンに昔のデータは残っている。だから捨てずに置いてあるのでは、と何度かのやり取りの中で結論付けた。

 総合病院に盆休みなるものはない。が、交代で休んではいる。今年は俺が休む番だったので、新幹線と在来線を乗り継いでその街へ向かった。帰省ラッシュで混雑する改札を出ると、奈都子がいた。何故か浴衣だ。約三十年ぶりだが、分かるものだ。研究室も休暇中だが、奈都子は鍵を持っている。奈都子の運転で早速大学へ行き、そのパソコンの電源を入れた。

 起動するかどうかも不安であったが、無事に立ち上がる。マウスはなく、矢印とリターンキーを使って、データベースを探っていく。この部屋には窓もエアコンもない。額から汗が流れ落ちる。浴衣姿の奈都子が団扇であおいでくれる。こいつ、意外に優しいんだな、と思って画面をみた。あっ、これだ。

 俺はそこにカーソルを合わせ、リターンキーを押した。パソコンが不規則な音を発し、壊れるかと焦る。が、現れた。おおっ、これは――。

 結局、俺の学問的な疑問は解決しなかった。このパソコンにあった母のデータベースは、研究室の会計データだった。昔から研究室は予算が少なく、研究員自らが庶務的な仕事を行ってきた。そんなデータを発掘しに九州の田舎まで出て来たのか、俺は。

 このまま終わるのも味気ないので、カーソルキーを右に進めてみた。表計算ソフトは横に広がっており、その先にも数字がある。そして文字が打ち込まれていた。
「三番目の引き出し」

 このパソコンが載っている机もかなりの年期が入っている。引き出しは上から三つ。当時からこの机がいじくられていない、というのも考えにくいのだが、その文字に従い、三番目の引き出しを開けてみた。

 そこにあったのは、黄ばみのあるノートだった。一冊は会計帳簿と書いてある。どうも二重帳簿のようだ。随分昔の話ではあるが、今でも有名な製薬会社の名前も見える。これは奈都子に任せよう。

 そしてもう一冊。かわいらしい丸文字で「思索」と表紙には書いてあった。女性の秘密を覗くようなうしろめたさを感じつつ、ページを開く。表紙の裏面に、小さく名前が書いてあった。母だ。研究者としての熱い思いと職場への不満。そのころ付き合いだしたはずの父のこと。大人への配慮から、俺は母に関することは知ろうとせずに邁進してきた。汗と涙が混和される。

 そして自身の体調に関する不安が綴られる。そうか、この頃から既に……。
 そんな体で俺を産み、旅立ってしまった母。俺の仕事には役立たなかったが、母の足跡をみつけ、そして母は俺の背中を押してくれた。


 しんみりした気持ちだったが、浴衣姿の奈都子と、近くの神社の夏祭りを回った。


 一年半が過ぎ、俺たちは結婚した。別居スタートだが、母も喜んでいるだろう。

[了]
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