何回やっても【三題噺その九】

文字数 1,999文字

「もう煙草は止めたんじゃなかったんですか!?」
 妻の金切り声で休日が始まった。昨晩は接待だった。お客様の機嫌は上々で、宴席後行きつけのキャバクラに足を伸ばした。ノンコという女の子が大変にできる人物だった。今時そんな源氏名である所がまず良い。そこから話題が広がる。詳細は覚えていないが、粗相は勿論なく私は贔屓のユリエにお礼を言って店を出た。お客様をホテルまでお送りし、タクシーを拾った。そして深夜のマイホームに戻ったのだ。痛む頭を抱え、私は布団のなかで記憶をたどった。煙草を吸う、いや咥える場面すら出てこない。
 ここで全否定しても問題は解決しない。私は布団を出て体を起こす。足元が少しふらつくが、嘔気はない。そこまでの二日酔いはなさそうだ。昨日のスーツもハンガーにちゃんとかけてある。袖がめくれているので、妻の手ではなく私自身がやったものだろう。となれば、煙草には手を出していないはずだ。そう思ったが、私はスーツに鼻を近づける。煙の臭いだ。
 リビングに行くと妻の背中が目に入る。彼女の向こうにはエクメアの鉢がおいてある。息子が去年贈ってくれた観葉植物だ。あの美しいピンク色の苞葉(ほうよう)を見るのが朝の楽しみなのだが、今日はそれも叶わない。後ろに回ると、妻がテーブルの上に置かれたライターとマイルドスターの箱を凝視していた。エクメアにちらりと目をやるが、気持ちが和まない。
 マイルドスターは確かに私がかつて愛煙していた銘柄である。しかしここまで確認できた昨晩の行動から推察すると、合点がいかない。たとえ吸ってしまったとしても、それを自宅に持ち込むはずはない。こうなることは十分予想できるからだ。
「やあ、おはよう。昨日は遅くなった」
「それはいいんです。お店に行くのもお仕事ですし」
「うん」
「でも、心臓の病気になってから、煙草は止めると。止めてください、と何度も言っているじゃないですか」
「そうさ、吸っていないよ」
 私がそう言うと、妻はテーブルを両手で叩いた。エクメアが一瞬浮いた。
「こんなものがここにあって、よくそんなことが言えますね! 貴方の身体を思ってのことなのよ!」
 妻の全てを今でも愛している。それには自信がある。しかし、老人性難聴なのだろうか。甲高い怒鳴り声はきつい。内容が入ってこない。もちろん分かっているのだが。
「ああ、でも今回は本当に覚えていない。タクシーで、一時くらいに帰ってきて……。そうだ、ここで水を飲んだぞ。ほら、コップが流しにある」
 私は立ち上がってそのコップを持ち上げる。が、妻の攻撃は終わらない。
「あたし、貴方を信用していますが、この件はダメです。もう何度目ですか? もう還暦も近いんです。でも啓斗はまだ大学生。元気じゃないと困ります」
 もちろん分かっている。それどころか私は吸っていない。いや、今回はという他ないが。遠慮がちにではあるが、私も黙ってはおれない。
「そう、ちゃんと気をつけている。昨日は吸っていない。お客様は吸われたが、その時も私は遠慮したんだ」
「じゃあ、これは何なの?」妻はマイルドスターの紙箱を握りしめる。プラスチックの封は破られ、数本は抜いたもののようだ。箱の中に隙間があるので、潰しやすくなっている。あまり強く握ると、その煙草が吸えないものになってしまう。そう思う私はやはり、煙草が吸いたいのかもしれない。
 この場をおさめるには、吸ったことにして謝るのが一番手っ取り早い。経験上それもわかっている。一方的に責められているときは特にそうだ。真実は私だけが知っている。こんな冤罪、これまでの夫婦生活で何度あったことか。両手両足のゆびでは数えきれないではないか。
「吸っていない。と思うんだが……。つい買ってしまったのかもしれない。ごめん。自分でも情けないよ」
「いつもそうなのね。まあでも、分かってくれたのなら、いいわ。でも、本当にもう止めて」
 おそらく私の演技は完璧なのだろう。うつむき加減で反省を装う。本当は反省すべき点などないのだ。もしかしたら誰かがいたずらでスーツのポケットに入れたのかもしれない。私の禁煙への飽くなき挑戦を、そして妻のヒステリックな性格を知っている人物か。だとしたら部下の難波か。あいつは時々そういうことをする。いやまてよ、ユリエかもしれない。ライターにあの店の名前があれば、その可能性は高まる気がする。私はそのライターを取ろうと妻の面前に手を伸ばした。
「ちょっとあなた、そのライター、仕舞うの?」私の耳を妻の声が貫く。
「やっぱり使うのね? だから仕舞うんでしょ? 私、数えてるんですよ。あなたの禁煙宣言。今朝で記念すべき二十五回目! 私たちの結婚年数と同じなのよ、笑っちゃうわ!」
 そう言われて、つい私も声を出してしまった。
「そうか、そんなになったか。ははは」
「開き直るの?」
「いやなに、それって君のダイエット回数より少ないからね」
 【了】
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