出世の条件【三題噺その八】<銀行員シリーズ>

文字数 1,978文字

 照りつける太陽を(にら)んでから、八代はインターホンを押した。ごく簡単に自己紹介を始めるが、「結構です」とすぐに腰を折られた。「まあ、そうだよな」そっと呟いて八代は歩き出す。汗がワイシャツの襟を濡らす。夏。炎天下の飛び込み営業は、何年やっても酷だ。クールビズなどという言葉がはやっているが、飛び込み営業は第一印象が命。ネクタイもしない銀行員が信用されるはずはない。支店長の頑固な考え方が八代たちを苦しめ続ける。ネクタイやスーツをキッチリ着ないことよりも、汗で不潔なほうが悪印象ではないかと思うが、おそらく自分で外回りをしなくなった上司たちには分からない。自分が課長以上になった暁には、こんなルールを撤廃してやる。出世のためにも、営業成績を上げなくてはならない。気合を入れて臨んだ隣の邸宅は話を聞いてくれ、金融商品の資料をお渡しできた。

 自分で運転する営業車に戻って、八代はスマートフォンを打つ。今日の成果を行内のSNSにアップするのだ。
「クソ暑い中を汗だくになりながら決死の飛び込み! 大口の見込み客ができました。支店までの運転、気を付けます!」そう書いて、汗のように水が(したた)るアイスコーヒーと、そのお客様が所有する農園の遠景とを写した画像を添付した。もちろん個人情報が特定できないよう配慮はしている。
 支店の自席に戻ったのは、そんな投稿から三十分ほど後だった。確認すると、「いいね!」が十件ついている。行内SNSのチェックは勤務時間中も許可されており、上司や幹部以外の行員も自由に閲覧できる。営業成績以外の頑張りやプレゼン能力を計る手段としてこのSNSは利用されているのだ。全国に散らばる営業担当全員が投稿するため数が多く正確な比較はできないが、ざっと見る限り俺以外に二桁の「いいね!」を集めているのは広島支店の笠口さんくらいのようだ。この人は入行年次が八代より二つしか上でないのに、もう課長に昇進している。この銀行が実力主義であることの証拠だが、とても勝ち目はない。とすると、今日の俺はかなりイケてる。実質一位だ。「いいね!」をくれた十人が誰なのかは気になるが、こちらからは確認できない。支店で同期の源藤ちゃんが、毎回「いいね!」を押してくれている。と八代は固く信じているが、確かめたことはない。

 今日の客は契約する。もちろんまだ預金や投信を獲得した訳ではない。が、彼なりの経験と勘がその確信を呼んでいた。そうすると、どうしても浮いた気分になってしまう。人に言うのはちょっと恥ずかしい。行内SNSにアップしておいて、後からバカにされるのは堪らない。なので一人、横浜駅前の居酒屋で生中のジョッキを傾け枝豆を口に放り込む。アルコールも手伝って、八代は更に高揚してきた。酔いが回ったときの八代。それはフレンドリーかつ大胆な彼だ。そうして得て来た友人も多く、銀行内外に関わらず人脈が広いことは八代の自慢であった。
 そんな八代の目が、浜下の姿を捉えた。八代の上司にあたる課長だ。営業成績はまあまあで、年次からすると順当な出世だろう。ただ八代からすると、あまりセールスも分析も巧くない。彼などは「いいね!」を多く集めることに長けていて、数年前新潟支店でブレークしたため今のポジションを掴んだ。更に上を目指す八代は、彼の技を盗む機会を伺ってきた。しかし課の飲み会などではガードが固く、ここまでその秘訣を知ることは叶わなかった。が、今日は浜下課長も一人のようだ。よし、今でしょ!

 いきなり隣の椅子に座られた浜下課長は驚いていたようだが、すぐに先ほどまでのほろ酔い顔に戻った。
「なんだ、八代か。君も一人か? 偶然だな」

 そう言って浜下課長はグラスに残っていた白ワインを飲み干した。店員が次のワインを運んできたあとも、他愛もない話を続けた浜下に、八代は剛を煮やした。それが態度に出たのだろうか、浜下課長は八代の肩を軽く叩いて続けた。
「まあ、あれだ。八代も出世が早そうだ。行内SNSは本当に役立つな。営業日誌はほぼあれで足りるし、みんなからの評価はモチベーションになる」
「そうですね。それは言えてます」
「ちょっとプレッシャーもあるけど」
「ちょっとだけですがね」
「まあ、確かに。でも八代、お前も裏技知ってるんだろ?」
「えっ、何がですか」
「とぼけるな。課金だよ。外のネットゲームと同じさ。実は課長以上は公認だ。これがないと俺たちは課長の地位を保てない。課長になるまでは原則使えないけど、課長クラスの行員がOKすれば、部下だって使って良い」
「ちょっ……。浜下課長も、そうやって……」
「それは……。いや、い、言うな。俺は答えない」


 半年後、八代は長崎支店へ課長として赴任した。行内最年少での昇進だ。浜下はロンドン支店で課長、広島支店の笠口は本部の部長代理へとそれぞれ栄転となった。

 【了】
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