覚悟の果てに【三題噺その十】

文字数 1,998文字

 遂に一線を越えてしまった。憂いのない妖精のような彼女の寝顔を見つめながら、私は焦っていた。派遣社員とはいえ、純果(すみか)は私の部下である。部下と関係を持ってしまったのは、私の半世紀に及ぶ人生で初めてのことだった。結婚以来、妻を裏切るような行為をしたこともなかったはずだ。この想いが本物であるとの自負はあった。この先、この女と人生を送るのだ。数時間前までそう誓っていた自分を思い出し、後悔した。だがこうなってしまった以上、私には責任がある。責任を果たすためにはしかし、時間が必要だ。当面は極秘の関係でなければならないのだ。
 私が部長を務める資金管理部に、純果がやって来たのは三か月前だった。人材派遣会社に依頼していたのは、英中二か国語ができ、会計・経理業務の経験がある者。国際的な取引の多い我が社としては当然の要求だが、そんな人材はなかなかいないだろう。そう思っていたが、依頼からわずか二週間で純果が派遣されてきたのだ。まだ二十代後半の女性で実力はどうかと訝っていたが、初日から期待以上の活躍ぶりで部の皆が驚いていた。その上、あどけない顔貌と豊かな曲線美を誇っているのだから、若手の男性正社員が色めかないはずはない。派遣社員の退勤時間には仕事を終え、一緒に飲みにいこうというのだろう。彼らの残業時間は減り、労務管理上の問題が解決されるというおまけがついてきた。
 私もその飲み会に誘われた。ご挨拶程度に誘っているのは分かっていた。非公式な会に上司が出て行って喜ぶ若手などいるはずがない。私にも若い頃があったので、そんなことも分かっていた。だがあの日、なぜか私は返事をした。「ああ、後で行くよ」と。海鮮が旨いと評判の居酒屋で、純果が私に酌をしてくれた。大きめのキラキラした瞳が私を捉えていた。その向こうに美しい二つの丘が膨らんでいた。私の心臓は高鳴っていた。
 その後の会話で、純果が北京に留学していたことを知った。偶然にも私が赴任していた頃に住んでいた街にあった大学だった。飲み会を楽しいと感じたのは何年ぶりだったろう。帰宅した後も興奮は醒めなかった。ただ、この話を妻にすることはためらわれた。妻も子も帯同しなかった北京の話は、家族内ではあまり歓迎されてこなかったのだ。思えばあの別居から夫婦の関係は壊れていたように思う。
 それからの私は異常だった。純果のことが気になって仕方がなかった。仕事中、純果に目をやってしまう。それだけでなく、社員たちの会話に逐一耳をそばだてた。何でもよいから純果に関する情報が欲しかった。仕事でもないのに一派遣社員に話しかけるのは、部長という私の立場上難しいのだ。一方で部長である私は、純果の履歴書を閲覧することができた。つまり純果の住まいや経歴をある程度までは入手していた。それらを元に私は退勤後も純果を追うようになった。探偵のように隠れて行動する自分を、むしろ誇らしげに思っていたことが恥ずかしい。
 その行動が純果にバレたとき、私はようやく部長にまで上り詰めたサラリーマン生活が終わってしまうのではないかと危惧した。上司がストーカーなのである。訴えられても文句は言えない。が、純果の反応は異なっていた。「部長、私は嬉しいです」そう言って抱きつかれてしまった。私も心が決まった。相思相愛ならば問題はない。この運命に従うなら、解雇も離婚も受け入れよう。一瞬で覚悟が決まった。
 いい大人が何を血迷っていたのだろうか。私には妻も子もいる。明日以降も仕事は山積みだ。それをすべて捨てられるはずはない。だが、私にも自由があるはずだ。純果と出会い、関係を持ったことで思い出してしまった。心が常に燃えていた、若き頃を。あの自由なエネルギーを奪っていった大きなものは、就職と結婚だった。だからそれを棄てるのも悪くない。そのための準備を、私は着々とこなしていくことになるのだろう。

 そう思い至った時、スマートフォンが鳴った。純果を起こさないようにベッドから離れ、画面をスワイプした。「あなた、どこにいるの? 昨日は残業? 飲み会?」まくしたてるその声の主も二十五年前は妖精のようだった。いまでは魔女を通り越し、妖怪とさえ表現したくなる。
「ああ、どっちもだ。これからファミレスで食べて、それで帰るよ」ひとまず何も悟られることなく電話を切った私を、純果が寝ぼけ眼で見つめていた。
「ファミレスじゃなく、もちろんホテルのビュッフェだ。行こうか」純果は急に体を起こし、私に背を向け無言で下着をつけ始めた。妖精とは移り気なのである。私は恐る恐る声を出した。
「どうした? 何か他に食べたいもの、あるのかい?」既にスーツに身を包んだ純果は、振り向かずに言った。
「部長、私たちは大人の関係でしかありません」
「えっ?」
「私は嘘をつかれる立場にはなりたくないんです」そう言い残し、純果は一人で部屋を出ていった。
 【了】
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