師匠 【三題噺1】<医療現場シリーズ>

文字数 2,254文字

 部屋の灯りを消し、握らせた赤いライトを頼りに狙いを定めた。今度こそ、成功させる――。
 うわっ。またこの子の手が動いた。汗で滑るせいもある。手背の黒い筋が滲み、広がっていった。血管を破ってしまったのだ。背後から肩を叩かれた。交代だ。
 先生は数秒で入れてしまった。二十四ゲージの黄色い留置針が見事にぶら下がる。先生が優しく持つその手は、俺の時と全く異なり、微動だにしない。看護師さんが黙々とテープを貼っていった。
「ダメだな」
 言い捨てるように処置台から先生は離れていった。うまくできなかった悔しい気持ち。神技を間近にみた感動。どちらも嘘はない。が、あの一言。迫力があって怖い。

 看護師さんと点滴の針をしっかり固定し、俺は先生を追った。外来の見学があるはずだ。指定された三番診察室。受付の後ろに繋がる通路から入って行く。そこには四五歳くらいの男の子とその母親がいた。男の子はバギーの上でシートベルトを締めていた。ボール型の骨組のようなおもちゃを持って、それを舐めている。先生は外来で診察中のところ、俺が出来なかった静脈留置針を入れに来てくれたのだった。先に病棟の処置室を出たはずの先生。まだ外来には戻っていない。

「よろしくお願いします」と俺が言うと、その母親がにこやかに話しかけてくれる。
「新しい研修医の先生ね。よろしくお願いします。貴方も是非小児科医になってね」
「いやまあ、いろいろ見てから決めようと」
「今はそうなのね。でもあの先生に付いていたら、小児科がいいと思うはずよ」
「そうかもしれません」
「でも、あのロン毛! 私最初女医さんかと思ったのよ」
「はあ」
 先生は前時代的な長髪で細身なので、遠目には女性に見られる可能性は、あるかもしれない。まあでも、顔を見れば絶対に間違えられないだろう。そしてまだ外来に戻らないのは、喫煙コーナーに寄っているからだろう。今や医師でタバコを吸っている人間は少ないが、あの先生は止めない。これもきっと、俺たち研修医にとって近寄りがたい理由の一つだ。わざわざマイナス評価になりそうなことを患児の母に伝える必要はない。でもそれを意識したら、話を続けられなくなってしまった。

 やがて先生は戻ってきた。バギーの上にいる子どもの診察もそこそこに、先生は母親と喋り続ける。実はこの男の子、八歳だという。話の内容については、今一つ何のことか分からない。キセツって、多分気管切開のことだけど、この子の首にチューブはついていない。そういうちょっと深刻そうな話をしながら、大笑いもしている。どういうことだ?

 外来が終わって、俺は病棟に戻った。先生が来る前に、回診を一通り終えておこう。何を突っ込まれるか分からないので、緊張する。あ、小児の正常値、確認してないや。焦ってスマホを取り出す。
「今頃調べてんのか? こらっ」
 ああ、もう何でいつもこういうタイミング?

 小児科に興味はあるが、正直なところ苦手意識がある。九割方ありふれた病気。でもそれらは当たり前すぎて、ほとんど教科書に載っていない。だから学生時代は、残り一割の名前すら覚えにくい難しい病気こそが小児科の勉強だった。なので今もとっつきにくい。それにやはり、患児本人よりも親との関係がメインになってしまう。自分の中で後回しにしていくのが分かる。でも、指導医の先生があれなので、ローテートの二か月だけは、やらない訳にはいかない。でも確かに、俺も二年目。そろそろ来年以降の専門を決めないとなあ。

 その夜、カルテを記載し、気になる項目についての教科書や論文を読んでいた。いまいち頭に入らない。気が付くともう二十二時。俺はパソコンの電源を落とし、鞄を担ぐ。そして空腹であることに気付いた。こんな時間に独りで食べられる所は、ラーメンか牛丼、あるいはハンバーガーのチェーン店くらいしかない。また今日も三択だあ、と思いながら先生のパーテーションの前に差し掛かった。パソコンを叩く音がする。多分論文執筆かな、と思ったが、キーを叩く勢いが余りに強く、そのスピードも乗っている。時々笑っているようだ。病院で何しているんだろう……。ちょっと怖くなったので、挨拶もせずに医局を出た。気分転換が必要だ。フリーWiFiがあって長居しやすいハンバーガーショップに行こうと思った。


 次の日、俺は先生と手術室に入った。帝王切開の立ち合いである。三十七週四日、推定体重二千八百グラム。既往帝王切開で、リスクは低い。一人でやってみるか、と言われたが、自信がないので付いてきてもらった。でも、蘇生台からは離れたところで監視されている。かえって緊張する。
 産婦人科の執刀医が子宮に横切開を加え、羊水が漏れ出る。透明だ。前立ちの医師が母体の腹を押す。頭が見えた。二秒後、第一啼泣。これなら俺でもできそうだ。助産師さんが新生児を蘇生台に移し、体に付着した胎脂を白いタオルでふき取る。動きが緩慢な左腕にセンサーを付け、足の裏を刺激した。赤ちゃんの大きな泣き声が手術室に響く。無事に出来たぞ、と俺は安堵した。
 振り向くと、先生がすぐ後ろにいた。心配してくれたのだろう。俺は先生に笑顔を向けた。しかし先生は、俺を見ない。赤ちゃんを凝視しながら、今まで見たことも無い笑顔を作っている。「うーん、やっぱりかわいいな。俺、この瞬間が大好きなんだよね」


 俺は心を射抜かれた。図らずも、昨日の母親が仰った通りの結果だ。小児科に進んで、この先生について行こうと決心した。師匠、よろしくお願いします! 

 [了]
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