記憶【課題文学賞その六】

文字数 1,762文字

 新橋明(しんばし あきら)は本当に秀才だった。彼を目標に皆は勉学に励んだ。中学受験から中高、更に大学を経て、新橋は脳科学の世界に進んだ。彼を目指した多くの連中はそれ以降、違う分野に身を置いた。そうでないといつまでも二番手より上には行けないと考えれば当然だった。しかし、上野昭(うえの あきら)は違っていた。小学生の頃から思い続けてきた。新橋にいつか必ず勝ってみせる。その強い信念で、いつも新橋の後を追いかけた。名前が同じ「あきら」であることも、上野の闘争心をかき立てていた。よくあることだが、新橋の方では同級生だった上野のことをほとんど意識していない。それは上野から見ても明らかであり、尚一層彼を悔しがらせた。
 脳科学の世界で上野が目指したのは、記憶力を高める技術だった。幼少のころから新橋を仰ぎ見て来た上野にとっては、新橋の記憶力は神の領域だった。教科書などは一度読んだだけで全て暗記できている。読むスピードも容赦なく速い。しかも丸暗記だけではなく、しっかり応用もできる。だから新橋は、研究者としての独創性も高い。正確に記憶しているので、盗用騒ぎに巻き込まれることも一切ない。独創性の土台はやはりしっかりとした記憶にある。上野としてはまずそこが敵わない訳だから、そう結論付ける他はなかった。
 そうして月日が経ち、上野はとうとう発見した。脳の前頭葉と辺縁系とに電極を埋め、ある刺激を与えておくとその間の出来事が正確に、しかも長期的に記憶されるのだ。大脳辺縁系は特に、頭皮から深部に位置するため、埋め込みのために手術が必要であることが難点である。が、動物実験やシミュレーションを繰り返し、安全な手技も確立させた。そしていよいよ人体実験を行う段階に到達した。
 しかしここで問題が生まれた。被験者になろうとする人物がいないのだ。記憶力が格段に上がることは望ましいこと。上野はその一念でここまで努力を続けた。しかし、手術に伴うリスクはやはりある。それを冒してまでそんな絶大な記憶力を欲している人間は、稀有なのだ。これでは実用化できたとしても、売れないだろう。ということは開発にかけた時間もカネも、一切が水の泡になる。それでは研究室にも家族にも申し訳が立たない。そこで上野は、自らが人体実験第一号になることを決めた。第一助手であった品川令(しながわ れい)が責任者となり、上野の開頭手術が行われ、彼の脳には常に人工的な電気刺激が起こされることとなった。

 実験の結果は悲惨なものだった。記憶力が増強するどころか、忘却が著明となった。新しいことを記憶できないのみならず、過去のことも忘れていく。上野は自力で帰宅することもできなくなった。そして衣服を着ること、食事を摂ること、排泄することまでも忘れがちになったところで、品川は実験の中止を決断した。さらに残念なことに、上野の記憶を戻す方法は分からないままとなっていた。
 この実験は失敗だが、しかし報告の意義は間違いなくある。そう品川は考え、筆頭著者として一流科学誌に投稿した。既に研究者としては役に立たなくなった上野の名前も、共著者としていれておいたのは彼の業績を称えるためだった。「おお、上野くんの名前がある」もちろん小学校時代からの同級生の名を覚えている世界的な権威、新橋は品川に連絡を取った。

 新橋は記憶力があり過ぎることを悩んでいた。何でも覚えているため、他人を許せない。自分の過去も肯定できない。だから世界的権威となった今でも家庭は持てないし、自分の親にも心を許せない。生活で楽しいこともない。なぜなら物事の裏面も全て正確に覚えているからだ。かつては読書家で映画好きだった新橋は、あるときから全て盗作や二次創作だと感じるようになった。つまらない。そんな中で研究だけは続けて来たのは、まだ新しいものを見つけられる可能性があるからだった。
 そこで品川の発表に目をつけたのだという。忘れることができるなら、是非それを使わせてほしい。おそらく電極を取り出すタイミングをうまくコントロールすれば望んでいる結果を得られるであろう。新橋は本気のようだ。

 その手紙を読み、品川は上野に報告する。「先生のお友達は、

のだそうです。本当に変わった方なのですね」既に言葉も忘れそうな上野にそれが理解できたかどうか、品川には分かりようもなかった。

【了】
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