記憶【課題文学賞その六】
文字数 1,762文字
脳科学の世界で上野が目指したのは、記憶力を高める技術だった。幼少のころから新橋を仰ぎ見て来た上野にとっては、新橋の記憶力は神の領域だった。教科書などは一度読んだだけで全て暗記できている。読むスピードも容赦なく速い。しかも丸暗記だけではなく、しっかり応用もできる。だから新橋は、研究者としての独創性も高い。正確に記憶しているので、盗用騒ぎに巻き込まれることも一切ない。独創性の土台はやはりしっかりとした記憶にある。上野としてはまずそこが敵わない訳だから、そう結論付ける他はなかった。
そうして月日が経ち、上野はとうとう発見した。脳の前頭葉と辺縁系とに電極を埋め、ある刺激を与えておくとその間の出来事が正確に、しかも長期的に記憶されるのだ。大脳辺縁系は特に、頭皮から深部に位置するため、埋め込みのために手術が必要であることが難点である。が、動物実験やシミュレーションを繰り返し、安全な手技も確立させた。そしていよいよ人体実験を行う段階に到達した。
しかしここで問題が生まれた。被験者になろうとする人物がいないのだ。記憶力が格段に上がることは望ましいこと。上野はその一念でここまで努力を続けた。しかし、手術に伴うリスクはやはりある。それを冒してまでそんな絶大な記憶力を欲している人間は、稀有なのだ。これでは実用化できたとしても、売れないだろう。ということは開発にかけた時間もカネも、一切が水の泡になる。それでは研究室にも家族にも申し訳が立たない。そこで上野は、自らが人体実験第一号になることを決めた。第一助手であった
実験の結果は悲惨なものだった。記憶力が増強するどころか、忘却が著明となった。新しいことを記憶できないのみならず、過去のことも忘れていく。上野は自力で帰宅することもできなくなった。そして衣服を着ること、食事を摂ること、排泄することまでも忘れがちになったところで、品川は実験の中止を決断した。さらに残念なことに、上野の記憶を戻す方法は分からないままとなっていた。
この実験は失敗だが、しかし報告の意義は間違いなくある。そう品川は考え、筆頭著者として一流科学誌に投稿した。既に研究者としては役に立たなくなった上野の名前も、共著者としていれておいたのは彼の業績を称えるためだった。「おお、上野くんの名前がある」もちろん小学校時代からの同級生の名を覚えている世界的な権威、新橋は品川に連絡を取った。
新橋は記憶力があり過ぎることを悩んでいた。何でも覚えているため、他人を許せない。自分の過去も肯定できない。だから世界的権威となった今でも家庭は持てないし、自分の親にも心を許せない。生活で楽しいこともない。なぜなら物事の裏面も全て正確に覚えているからだ。かつては読書家で映画好きだった新橋は、あるときから全て盗作や二次創作だと感じるようになった。つまらない。そんな中で研究だけは続けて来たのは、まだ新しいものを見つけられる可能性があるからだった。
そこで品川の発表に目をつけたのだという。忘れることができるなら、是非それを使わせてほしい。おそらく電極を取り出すタイミングをうまくコントロールすれば望んでいる結果を得られるであろう。新橋は本気のようだ。
その手紙を読み、品川は上野に報告する。「先生のお友達は、
忘れたい
のだそうです。本当に変わった方なのですね」既に言葉も忘れそうな上野にそれが理解できたかどうか、品川には分かりようもなかった。【了】