オキシグラス 【2000字FT】

文字数 1,997文字

 いつも失敗ばかりする。相手の気持ちが分かれば、こんなことにはならないのに。

 思い出しては過去を悔やむ日々に、別れを告げる時がやってきた。Gamazonの特別モニターに選ばれた僕は、センスのいいゴーグルを手にしている。これは同社が総力を注いで開発した、人の気持ちが分かる眼鏡「オキシグラス」だ。一見すると、ウイルス感染や花粉症対策のそれと大きな違いはない。VR用のものに比べると随分スマートだ。使用方法は実に簡単。これを通して相手の顔、正確には鼻の辺りを見るのだ。すると脳内にある下垂体後葉から分泌されるオキシトシンというホルモンの流れが見えるのだという。これは愛情・共感が芽生えたときに多く分泌されるらしい。だから恋愛でもビジネスでも、相手の気持ちをリアルタイムで覗くことができる。悲しい時や怒っている時には分泌が減るはずなので、うまく行かない場合の心の準備もできるだろう。

 早速試したいが、僕は一人暮らしのサラリーマン。今日は土曜日で仕事は休みだ。恋人はいない。用事のない休日の朝は、自室から徒歩五分の梅屋で朝定食を食べながら新聞を読むことにしている。こんな商品のモニターをやる自分だが、新聞は紙媒体で読む。タブレットだと、読み飛ばしがちで折角の情報を逃してしまうかもしれないからだ。ひとまずどんなチャンスがあるか分からないので、自室を出る際にオキシグラスは装着しておいた。今日は晴れていて花粉も飛んでいそうなので、怪しくはないだろう。

 普段通りに唸る券売機で、食券を買う。昔の古臭い券売機の方が、食券を手にするまでの時間は短かったのにな、と思う。今日は焼鮭朝定食にしよう。おなじみになったアクリル板の間に座り食券を出す。この店を使う時、三分の二くらいの確率で見かける東南アジア系の女の子が、今日もカウンター内で忙しそうに働いていた。僕はアジアとの貿易に憧れ今の会社を選んだ。ということもあって、ちょっと彼女にも興味があった。

 オキシグラスは、外から掛けっぱなしになっていた。なので彼女の小さな肩をオキシグラス越しに眺めることになった。どんな仕掛けかよく分からないが、全身の血管を流れるオキシトシンには反応しないらしく、特に何も見えてこない。見え方に何の違和感もないのは凄い。もちろん制服のポロシャツが透けて下着が見える、ということもない。Gamazonへの感想に一言書き添えなきゃな、と思いながら新聞を取り出す。

 新聞を読むためにオキシグラスを外そうと思い、右手を動かした。が同時に、この彼女の鼻を見たいとも思った。だから不自然ながらそのまま新聞を読み、定食を待った。梅屋はわずか二、三分でこれを届けてくれる。決して油断はできない。一瞬の隙に、彼女の顔を正面から見据える必要があるのだ。前夜読んだ取扱説明書には、一〇秒あれば安定した測定結果が出せると書いてあった。一〇秒。短いようだが、この場面だ。常識的に、一〇秒も店員さんの顔をじっと眺めていられるだろうか。

 そしてその時が来た。幾分かこなれてきたが、まだたどたどしさが残る日本語。
「焼鮭朝定食、オマタセシマシター」
 ぐっと僕は顔を上げ、彼女の顔を見た。ちょっと驚いた表情に見えたが、店員さんらしい、微笑みを返してくれた。が、これは二秒で終わる。何か言え、僕。
「しょ、醤油はありますか?」
 常連の域にありそうな客が、こんな質問をするとは。しかし彼女は平然と答える。
「あ、テーブルに、アリマスヨ」
 運よく厨房に戻る前に答えてくれたが、一〇秒間の静視はおそらく叶わなかった。鼻の奥に、なんとなく赤いフローが浮かんだが、これなのだろうか。そうだとしても、これが分泌の多い状態なのか、通常のそれなのか、全く判別がつかない。

 そう気付いたあとに、オキシグラスを付けたまま食べる焼鮭定食は、醤油で普段よりしょっぱくなった。これじゃ、一発勝負には使えないな。デート中に相手の感情変化をみるのにはいいかもしれないが。もちろん商談でも。しかしそこに持っていくまでに、有用どころかむしろ怪しさが増すばかりだ。

 そんなことを思いながらも鮭の皮まで食べ尽くし、しばらくカウンター席で新聞を読み続けた。香港の選挙制度やミャンマーの政情は毎日のチェック事項だ。Gamazonモニターの記事は、見当たらなかった。

 一通り新聞を読み終え、店外へ出た。もう九時を過ぎてしまった。ちょっと長居しすぎたな。これから実家に戻って、これを母か妹で試してみようかな、と考えていた。説明したら逆に頭を覗き見られるだろうな、と思いながら。

 自転車置き場に小柄なあの彼女がいた。偶然だが、振り向いてくれた。
「ごちそうさまでした」特に何も期待せずに僕の口から言葉が出た。
 にっこりと微笑んでくれた彼女の鼻の奥。

 真っ赤なフローが先ほどより遥かに力強く、明瞭に、浮かび上がっていたのだった。
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