くそものの誓い  【2000字歴史】

文字数 1,998文字

 俺は船乗りになった。くそものを運ぶ船だ。仕事は炊き出しだ。え? それで船乗りか、って? 何言ってやがる。炊き出しをしつつ船の、さらには取引の仕事を覚えて、絶対に船頭になるんだ。

 船乗りになると決めたのは、六歳の暑い夏の日だった。強烈な(にお)いと共に、船はやってきた。
「かぁ、何けえ?」
 いつも何かと(いじ)めてくるが、つるんでもいる、弥助に尋ねた。
「これぇ、くそものやちゃ。あーくさっ」
 弥助は鼻を二つの指でつまみ、しかめっ面をした。
「総司の(にお)いもこれに似とんねか!」

 そんなことはない、と俺は思う。俺はあんなもの触ったこともないのに。弥助に更に絡まれないように、そっと家路につく。でも、不思議だった。そんな(くさ)いものを、あんなに沢山、何故船で運んでくるんだろう?

 越中岩瀬の大町通りには大きなお屋敷が十軒ほど並んでいる。その奥に俺の住む小さな長屋はあった。母は表通りの大きなお屋敷の一つで働いている。父のことは覚えていない。

 夕暮れ時、大急ぎで帰ってきた母に、くそもののことを尋ねた。
「あれえ。あんた知らんがけえ。あの(くさ)いがは、宝の土や」
「宝の土?」
「あれを田んぼやら畑やらに撒くが。そしたらよー育つがやと」
「そんなが?」

 それから母は、くそものが(にしん)という魚の臓物から作られた肥料であること、更に鰊は蝦夷で大量に採れること、蝦夷で加工して船で運んでくること、その肥料で越中は米を多く作れていることなども話してくれた。母が博識であることに驚いた俺は、そのことを母に指摘した。

 ふと、母の表情に戸惑いが浮かんだように思えた。しばらく間があって、母が言葉を継ぐ。
「おとっちゃんも、くそもの運んどったがよ……」

 父の仕事について母から聞くのは、初めてだった。父はバイ船乗りだった。母が働く大きな屋敷は、その船主の家だった。

 船は夏に蝦夷からやって来る。くそものを下ろし、米や薬を積んで、西へ向かう。厳しい冬が過ぎ、春を迎えるころ、船は西から、今度は大きな石や、塩の袋を運んできた。春の記憶が薄いのは、あの(にお)いがないからだろうか。

 ある夏の日、少し雲がかかり、生暖かい風が吹いていた。岩瀬で積む越中の薬は、各地で好評の品だ。行商人が契約した品を、約束の日までに届けねばならない。だから、船は出したい。うまくすれば、大きな儲けになる。船主は出航を決めた。船乗りたちはつかの間の団欒を中断し、準備する。生後一年と経たない男の子の顔をじっくり眺め、父は母に言う。
「おれら、バイ船乗りながよ。なーん、大丈夫やちゃ!」

 それから数日後、若狭湾を台風が抜けた。能登半島の反対にある岩瀬では、穏やかな波だった。若狭で沖に流され、船が沈んだ。激しい風雨で犠牲者は増えた。

 船主は、見舞金をくれ、母を雇ってもくれた。だから俺は寺子屋で読み書き算盤を習うこともできた。弥助よりは得意だ、と思う。

 しかし荷主の薬商人たちは、商品を納められなかったことを恨んだ。大元の責任は船主にあるのだが、名士である船主には何も言えない。だから、陰で船乗りの遺族を責めるのだった。船主の計らいで経済的にはそれほど苦しくないはずの俺たちも、肩身の狭い思いをしながら過ごしていた。弥助には薬商人の親戚がいる。親戚付き合いの深い越中人は、その影響を受けやすい。それで俺は、弥助からいろいろと(いじ)めに遭う。

 母から父の最期を聞き、俺は決意した。バイ船に乗る。でも、母にも、他の誰にも言わなかった。母は息子も海に沈むかもしれない、と反対するだろう。弥助からは、やはりくそもの運びか、と馬鹿にされるだろう。黙って勉強するのだ。

 船乗りは普通、十四歳くらいで(かしき)として採用される。だから俺は、飯の炊き方、漬物の漬け方、魚の捌き方などを少しずつ母から学んだ。いや、これは無理やりやらされていたか。バイ船には乗れないが、漁の舟なら乗せてもらえることがある。弥助に見つからないように隣村へ行き、漁師の舟にもぐりこんだ。越中の海は、少し沖に出るだけで深くなり、魚の種類が豊富だ。漁師たちは少し怖かったが、意外に優しい。一緒に舵を触ったり、網を引いたりするのは、楽しかった。そして泳ぎもたくさん練習した。弥助よりも速く泳げる、はずだ。

 船に乗せてくれるよう願い出たのは十一歳の時だった。船頭さんからは未だ早いと断られた。でも、船主の旦那が父を覚えていて、能登通いに乗せてくれた。炊事を手伝ったが、船酔いしなかったことを褒められた。そして、十二歳の誕生日、蝦夷へ出航するのだった。江戸が東京になった新しい時代。働き方も自由なのだ。

 越中の荷で満載の船中、火勢を整え、汗を拭く。美しい立山連峰の足元から弥助の醜い叫び声が聞こえる。
「総司、何しとんがやーっ?」

 俺は浜の弥助を一瞥し、呟いた。
「バイ船乗りながよ」
 それは弥助へではなく、俺自身、そして父へ向けた、静かな誓いの言葉だった。
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