第２話　他愛ない彩り

　恐る恐る階段口から丸い目だけ覗かせて二階の様子を伺ってみる。二つの深緑(みどり)の玉が右へ左へ。もう一度ぐるりと頭上を確認。どうやら今日は飛びかかってはこないみたいだ。
　部屋の中央、寝床で豪快な寝息を立てている姉の姿が見て取れた。手足を投げ出して仰向けになって、大口を開けて本当に気持ちよさそうだ。首が痒(かゆ)いらしく、そこに"埋め込まれた"白い武骨な首輪の辺りを掻きながら、何か不満そうにぶつぶつ言ってる。
　思えば、飛び付かれるのを恐れるのなら、遠くから呼び起こせばいいのだが。見るからにあれは、その程度で易々目を覚まさないやつだ。
　寝冷えしないようにと多めにかけた掛け布の内、一枚は辛うじてその身体を覆っているのが見えるが、他はというと。

「え、どうしてここに落ちてるの?　投げたのかな?　寝ながら??」

　何がどうしてそうなってしまったのか。階段口の隣にまとめて落ちているではないか。
　寝起きまでその役目を果たせなかった哀れな掛け布を拾いつつ、いつでも逃げられるようにそれを盾にしながら少女は近づいてゆく。いよいよだ。

「静かにい……。そおーーっと……。そおーーっと……」

　あと2歩……。あと1歩……。ふう……。
　まずは接近成功。ここまで来れば残すは手足や頭の位置から飛び付かれなさそうな場所を確認、避難して、準備よし。少女はスクートスの爪で拵(こしら)えられた首輪に触らないよう優しく姉を揺すった。

「お姉ちゃん。朝だよーー。今晩また"お勤め"あるんでしょ?　起きてーー」
「……ん、にゃ……。まだ寝さし…………ぐぅ……」
「いつも支度、長引いちゃうんだからそろそろ起きないとだよーー?」

　まだ夢に浸っていたいのか、単に勤めの支度が面倒なのか。はたまた飛びかかる機会を狙っているのか。優しく促す妹を煙たがりつつも、ちゃっかりその手から掛け布を奪い包まって二度寝にかかる。寝ながらにしてなかなか強情だ。
　溜息混じりに肩を落とすも一つ分かったことがある。今日は飛び付かれない日だ。そうとなれば遠慮することなんてない。少女はめげずに今度は大きく揺すりながら少々意地悪そうに言葉を続けた。

「もう。お姉ちゃんの大好きなドゥ―ルスのスープせっかく作ったのに冷めちゃうよ?　ドゥ―ルスだよ?　ドゥ・ウ・ル・スーー!　起きてくれないんだったら、全部食べちゃうんだから。ほら、もう!　だから起きてってばあ。起きなさいいいい!!」
「……んにゃっ!?　ドウスッ?!」
「いや、舌回ってないから――」
「起きるっ!!　ほう言うことは先に言いんさいよっ!」

　少女の言葉を耳にするや、掛け布が勢い良く部屋の彼方へと飛んでいった。
　ああ、また拾わなくちゃ……。
　そんな妹の気苦労など知るわけもなく、ようやく一人の"初老の少女"が飛び起きた。いや正確には、酷く"ひび割れた"少女だ。そのか細い腕や脚は、まるで干からびて抉(えぐ)れた大地のようにひび割れてしまっている。酷い箇所だとその一部が剥(は)がれ落ち、赤黒く爛(ただ)れた肌が痛々しい。特に首輪辺りの傷は酷く、首筋から頬にかけた部分は思わず目を背けたくなる。

「ああしのドゥルスッ!　ドルスッ!」
「あっ!　お姉ちゃん危な――!」
「ドッ……!?」
「今、すごい音したけど……。お姉ちゃん……?」
「……イタタタ。……うっひょっほおおおおうっ!!」
「もう……。フフッ」

　そんな痛々しい身体も気に留めない機敏な動きで、機敏すぎて寝起きの足では支えきれず顔面を壁にぶつけてしまったが、そのひび割れた姉は我先にと足早に居間へ駆け下りていってしまった。
　もう。子供なんだから。
　長年妹をしていても今のには驚いた。でも、それも微笑ましい。そう思えてしまう。

「今日の起こし方、ちょっと効きすぎだったかな?　寝起きで怪我されちゃったら危ないもんね。今度、考えておかなくちゃ。よいしょっと。これ、さっきも拾ったんだけどなあ……」

　危なっかしい姉を見送った後、身代わりとなって飛ばされてしまった掛け布をまた拾う。それから寝床を整えて、持ってきた姉の勤め着を枕元に添え少女もその後を追った。





「昨日の夜。すごく寒かったね。お姉ちゃん身体、冷えなかった?」

　ことことと煮立って食事を催促する鍋の前には、匙を握りしめた姉が小躍り気味にごとごとと床を鳴らして座っていた。跳ねた青鈍(あおにび)色の髪を整えようともせずに、食事はまだかまだかと飲み込んだ生唾が大きく首輪をうねらせている。

「んにゃ。少し寒かったけど、テララの飯食えば何も問題ないよ。だからほらっ!　いいからはようこっちきて座って!　ほらっ!　ほおおおらっ!」

　いつになっても本当に子供みたい。あといくつ日が巡ったら、お姉ちゃんはお姉ちゃんらしくなってくれるのかな……。
　そんな日は果たして来るのだろうか。それよりも先に、少女の落とし過ぎた肩がいつか撫で肩になってしまうかもしれない。
　そんな心配事も絶えない妹、テララの期待とは裏腹に、これまたちゃっかり大きめの匙を選んでいる様子からすると、どうやらずる賢さはちゃんと育っているらしいが。
　テララはやれやれと眉をひそめて、まだ舌の回らない姉に急かされるまま鍋の脇に着いた。さながら、手間のかかる子供の世話をする母親といったところか。テララお母さんは最後の味見を済ませた後、椀によく火の通った大きめの干し肉とドゥ―ルスの実を多めにこんもりと注いだ。
　一方の大きな子供の姉は、寝起きで細まった目をこれでもかと言わんばかりに見開いて少し怖い。獲物を睨む形相、もとい満面の笑みでそれを待ち構えている。まるで少女に飼い慣らされた家畜と大差ない。

「おほほほおおおお!!　早く!　ちょうだい!　早くうっ!」
「はあい。召し上がれ。まだ熱いから気をつけてね、って――」

　椀の中が空になった。
　今、手渡したばかりのはずなのに、具を咀嚼(そしゃく)する間もなくスープが飲み干されてしまった。まだ大きい具がそのまま喉を通ったせいで、武骨な首輪が一際大きく揺らいだと思ったらもう空だ。
　毎度のことながらその見事な食べっぷり、呑みっぷりには、テララも唖然と喜びを掻き混ぜたような表情で固まってしまう。

「かっひーーっ!　うんまいっ!　おかわりっ!」
「お、お姉ちゃん。本当に好きだね。そんなに一度に呑んじゃってつらくないの?　沢山作ったからゆっくり食べていいんだよ?　……はい、どうぞ」

　口の小さいテララからしてみれば具の大きさも驚きだが、何より少しも冷まさず湯気立ち上る熱いスープを、冷や水のように飲み干す様が恐ろしくてならない。でもそれを見ていると、自分も気にせず飲めてしまいそうな気になってくるから不思議だ。
　――あつっ!?
　うむ、そんなことはなかったみたいだ。

「だってお母さん、……違っ……、あん、た……家事……上、手……から……。……おかわりっ!!」
「もう、飛んでるから……。食べながら話さないの!　行儀悪いのダメだってお母さんも言ってたでしょ!」

　――お母さん。
　飛び散る飯と一緒に姉の口から不意にこぼれたその言葉。
　ほんの一瞬。ほんの少しだけ。手元のスープに下ろした深緑の瞳に哀愁が漂う。準備もしていないのにいきなり口にするのはずるい。

「お、お母さん。やる気だけはすごかったよね。何するにしてもいつも笑顔だったし……。でもとことん不器用で……フフッ。結局、全部私がしなくちゃいけなくて、私がお母さんよりも家事、先に覚えちゃって……。お陰で私……。お姉ちゃんよりも早くお嫁さんになっちゃったりしてね!　エヘヘッ……」
「うっぐ!?　かっはっ!!　な、なあに言ってるんだか!　12にもなって、たしか一度も男気がなかったと思うんだけど?　て言うか、急におかしなこと言うんじゃないよ!」
「もうすぐ13になるもん。お姉ちゃんと3つしか違わないでしょ!　もう、いじわる言わないでよーー!」
「あたしはいいのーー!　それにテララがお嫁にいったらスープ食べられないもん!　そんなの許しませんーー!」

　太陽もようやく顔を出し、天窓から温かく射し込んでいる。
　内壁に飾られた飾り布や絨毯(じゅうたん)が光を浴びて紺に軍緑、緋色に染まり、木組みの質素な部屋が色付いてゆく。
　冷えた身体も鼻から胸を満たす湯気と腹に溜まるスープの温もりで芯まで温かい。

「そう言えば、今朝どんな夢みてたの?　この間飛び付いてきた日は、私がご飯作ってくれない怖い夢見たって泣いてたよね?」
「ん?　ほんなことあっはっへ?」
「え!　覚えてないの!?　ついこの間だよ?」
「いやほんと。これっほっひも。……そう!　今日のはさあ!?　ちょっと聞いてよ!!　……ん?　なんだっけ?」
「今日のも覚えてないんだ……?」
「ああ……。さっき顔ぶつけたせいかなあ。忘れちゃった……」
「傷できたりしてない?　平気?　痛いところは?　ごめんね。意地悪な起こし方しちゃって」
「ん?　あんた、何かしたの?」
「覚えてないならいっか……」
「何それ!　何したのさ!　ちょっと教えなさいよお!!」

　隔てるものが何もない二人だけの穏やかな日常。いや、今朝はいつもより多めに作ったスープの分だけ、少しだけ賑やかな朝だ。





　スープを平らげた姉は、満足そうに絨毯(じゅうたん)にまた仰向けになってしまった。
　そんな姉を横目に二人分の食器を重ねて立ち上がると、テララはおもむろに告げる。

「それじゃ、そろそろ行くね?」
「ケフッ。……ん?　どこか行くの?　ウプッ……ううう、食べ過ぎたあ……」

　その突然の申し出に反射的に身体を起こすことすら今は無理なようだ。
　ぽっこりふくれた腹をさする姉を横切って、テララは食器を洗いはじめる。

「今朝、お肉とかきれちゃって、小山で"拾って"こようと思うの。お母さんの花も萎(しお)れちゃって換えてあげなくちゃ」
「"ハリスの山"に行くのね。ウプッ……。くれぐれも……」

　テララの向かう場所は簡単に察しがついたらしい。スープで口元を汚したままの顔で姉は何やら言いかけたが、今のは危なかった。
　似合わず慎(つつし)んだ調子で言葉を続けようとした姉よりも先に、テララがまた少し意地悪ぎみにいつもの口ぶりを真似てみせる。

「ハリスの山は母大樹様から贈られた宝物だから、むやみに荒らしてはいけない。でしょ?　何度も毎日1人で行ってるんだもん。ちゃんと分かってるから」

　威厳高らかに人差し指も鼻も掲げるつもりだったが、今になって暴れる腹の中身にそれどころじゃない。バツの悪そうというより、少し青ざめた顔で姉は背中を丸め悶え転げている。
　お腹痛そう……。ま、いつものことだし平気でしょ。変な物使ってないし。私、何ともないし。
　これも教育の一環。少し薄情な気もしなくもないが、いい薬になってくれたらとその思いで、テララは姉の様子を伺いながら気持ち優しく要件を添えてゆく。

「お姉ちゃんの"ミコフク"。寝床の枕元に畳んでおいたから、ちゃんと用意はしておいてね?　今日、少し寒いみたいだから寒かったらちゃんと温かくしてね?　水、隣に置いておくから倒しちゃだめだよ?　夕暮れまでには帰ってくるから。ああ、あと。口のところスープまだ付いてる。それじゃ、行ってきます!」

　戸口横に立てかけられた小ぶりの石斧を腰にくくり付け、植物の葉や茎で編まれた籠を背負う。それから日除け笠を首に掛けて、テララは足取り軽やかに戸口をくぐって行ってしまった。

「……いててて。お母さんの件(くだり)、ちょっと心配だったけど、大げさにしすぎたかな……。まだ無理しちゃってさ。ウプッ!?　いつつつつ!?　……ダメ、冗談なしに痛くなってきたかも……。テララは……居ないし……。ウブフッ!?」

　満腹という名の暴力にのた打ち回る姉よ万事休すか。