第8話 家中ゆるがす思い違い
文字数 6,477文字
そうしてしばらくの間、思う存分嬉しさを顔中揉みくちゃにして感じた後、大きく真っ赤に腫れ上がった目をしてテララは顔を上げた。
寝起き直後の程度であればただの寝不足だと、からかう姉をあしらえたかもしれない。だがしかし、流石にこれはだめだ。姉に衣服の下に肌着を着させるほど無理な話だ。瞼 が特に重たく腫れてしまったせいで、丸く可愛らしかった深緑の目も半月のようにむっちり半分隠れてしまっている。常に気を張っていなければ何とも物悲しい表情に見えてしまう。そんな顔、あの姉に見られようものなら爆笑必至だ。
再度目をこすって重く垂れてくる瞼の納まりどころを決めてから、今度は取りつくろうことなく純粋に無垢な笑みを浮かべて勢い良く立ち上がった。
「……それじゃ、朝ご飯にしよっか! お腹、空いてるでしょ? あ……、それとも身体、洗うの先にする? そのままだと、そのう……。あまり気分よくないよね……?」
袖をまくりながら自慢の特技をもって持て成そうと意気込む半月目の少女。しかし意欲的に提案してみたものの、寝床に座り込んだヒトの容姿を改めて見て代案を持ち掛けずにはいられなかった。
何せ銀眼のそのヒトは昨日の惨事以来、黒く乾いた血の痕で身体中を覆われたままだったからだ。手当を受けた患部辺りは幾分拭われてはいるが、下手に身体を起こすこともできず大半はそのままとなっていた。耳や目元を覆うほどに長い髪はその色が定かではないほどに、まるで血を吸ったかのように赤黒く染まってしまっている。身に着けている白地と思われる衣服も両袖は引き千切られ、腹が剥き出しになるくらいに酷く破れ血痕が至る所に飛び散っている。どう見ても、そのままでは美味しくご飯を頂けそうにない有り様だった。
頭の先から爪先まで忌避するような視線で見つめられ、銀眼のそのヒトは首を傾げている。少女の視線に促されて四肢を持ち上げその先の何かを探してはみるが当然何も見つからない。こちらも半月目ほどではないにせよどこか困り顔だ。
そんなあどけない仕草に思わず表情も和む。こうも素直に反応されるとどうも世話を進んでしたくなるのがテララである。
「着替えの服、探してくるから背丈見せて欲しいんだけど……、立てそう?」
寝ぼけて一人で起きられない姉に差し出すようにそっと伸ばされた手。
目の前のそれに反射的に開きかける口。
「――あっ! 噛み付くのはなしだよ? あれ……、すごく、ちょっと痛かったんだもん……」
別に悪気があった訳ではないにせよ噛み応えを知っているそれをお預けにされ、銀眼のそのヒトはどこか切なげだ。
こればかりは仕方がない。昨日噛まれた左手はまだ傷が癒えず、手当はしてもらったものの痛くて使いものにならなかった。これでもし伸ばした右手を噛まれようものなら、一体誰が明日からこの家の家事をするというのか。姉に任せようものなら、冗談ではなく下手をすればこの家が壊れて倒壊しかねない。何気ない一瞬ではあったが、その実、生死を決めるほどとてつもない重大な局面であったに違いない。だからこそ今のは危なかった。
しかし、それはそれとしてどうしたものか。手は噛まれずに済んだものの、銀眼のヒトは差し出されたそれにどう反応して良いのか分からないらしい。テララの顔とその手を交互に見詰めては視線を巡らせるばかり。右へ、左へ。小首を傾げながら考え込んでいるように見える。下手に怒らせたりしなければなんともいじらしく、やはり愛らしくさえ思えてくる。
フフッ。何だかちょっと可愛いかも?
密かにそんなことを思いながら静かに待っていると、やがてそのヒトは恐る恐る自身の手を伸ばし、ようやっと指先をテララの手にかけることができた。
「そう! 上手! 上手! それじゃ手を引くから、ゆっくり立とうね」
テララはその手をそっと包むと、傷口に障らぬように赤子に掛け布をかけるよりも優しくその手を引き起こしてやった。
慣れない動作にそのヒトは危なかしくよろめいて、テララの細腕にしがみ付きながらなんとか立ち上がろうと奮闘してみせる。
「ほら頑張って! もうちょっと! もうちょっとだよ? よいしょっ! よいしょっ……! ゆっくり、ゆっくりでいいからね」
赤ちゃんが初めて立ち上がるのってこんな感じなのかな? 私たちが立とうとしてるのを見て、お母さんどう思ったんだろう?
今、かつての母親と同じ物を見て考えている。そんな風に思うと少し嬉しい。震えるその手を支えるテララも、その懸命な姿に知らず知らずの内に力が入っているみたいだ。
それまで一度も立ったことがない乳飲み子のように、爪先、足首、膝、腰へと少しずつ重心を確かめながら力を込めていく。途中、態勢を崩して足を捻りそうになりながらも、背が強張って丸まったままではあるがなんとか立ち上がることができた。
――あっ! 危ないっ!? 思わず嬉しくて拍手しそうになっちゃった。今、手を放したら、また怪我させちゃうよね。いけない、いけない……。
「ふう……。あ、上手、上手! 身体、痛かったら教えてね? ……うーーんと、私より少しだけ小さい、のかな? 私が前着てたので足りそうだね。一度試してみよっか」
テララは自分の頭頂部に手の平を当ててその高さを確認してから、そのままその手を銀眼のヒトの頭上へと移し手とその差を計った。だいたい拳二個と半分くらいだろうか。背が丸まっている分は、まあ取るに足らないだろう。もし丈が足りないようなら姉に充てるつもりだった物を使えばいい。それで決まりだ。
そのヒトの背丈をおおよそ見当をつけると、もう一度支えながら寝床に腰かけさせてやる。
やっと立てたかと思えばすぐまた座る。次々と変わる状況に完全に置いてきぼりをくらっているその銀の目はただきょとんとテララの顔を見上げるばかり。
……あ、やっぱりちょっと可愛いかも!?
その上目遣いにはたまらなく母性をくすぐられる。これはもしや天性の魅惑を備えた逸材ではないだろうか。おそらく自覚してないだろうが、密かに悶えるテララの声色は浮ついているようだ。
「フフッ。何も心配いらないよ? 代わりの服ちょっと探してくるから、そのまま待っててくれる?」
完全に困惑しているそのヒトに再び微笑みかけると、母性に翻弄された少女は嬉しそうに部屋の暖簾 をくぐり自室へ駆けて行った。
一人部屋に残された銀眼のヒト。テララが視界からいなくなると今度は視線のやり場に困ったのか。何かを探すように部屋の中をぐるりと見渡しはじめた。
その部屋はそのヒト一人が納まるには少々広すぎるようだ。寝床の寸法は大人一人十分に横になれるほどの大きさがある。衣服を仕舞う箱も大きい物がいくつもあり、置かれた椅子に腰掛けても足が着けないだろう。どれも子供が扱うには不便そうな家具ばかりだったが、その全てが埃一つなく整理されていた。
家事の心得がある者であれば、その整えられた部屋から家主の品性を伺え知り称賛するだろう。
だが、今そこに居るのは素性もまだ分からない訪問者。一人で立つこともままならない、いたいけさが残る子供だ。一通り見て回ったものの関心を惹く物が生憎見当たらなかったらしい。銀の視線はやがて自身の四肢に落ち着き、傷を確かめるというより、どこか物珍しそうにそれらを持ち上げては舐め回すように眺めはじめた。やせ細って貧弱というわけでもなく、余分な肉が付いて太いわけでもない。まるで"計られた"ような必要最低限の無駄のない整った手足だ。それは恐らく、最近ちょっとお腹の肉のたるみを気にしているテララの姉からすれば嫉妬したくなる代物だ。そんな均整のとれた手足を見るのに夢中になって身体を捻りもつれさせ、寝床の上で一人もがき苦しんだ後、次はどうやら再び立ち上がるつもりのようだ。両足を床の上に垂らし、身体を支えようと試している。しかし、テララの補助なしではまだ自立するのはやはり覚束 ないようで、なんとも危なかしい。テララも引くほどに今にも顔面から床に突っ込みそうな危うさだ。けれど、そんな様子を止める者などなく、寝床から腰を持ち上げたところで案の定大きく両手を振ってよろめき、二、三歩踏ん張るも呆気なく尻をついて倒れ込んでしまった。
暖簾 や薄い衝立 で仕切られただけの粗末な家屋だ。その衝撃と物音はどこにいても知ることはさぞ容易なものだったろう。
その物音を聞き付け、負けず劣らずの慌ただしさでテララが何事かと部屋に駆け込んできた。
「どっどどっ、どうしたのっ!!!?」
尻を打ち付けた当の本人は自身の状態に然程関心はないらしい。むしろつい先程までの穏やかな表情とは打って変って、深緑の瞳を大きく見開き声を張り上げる少女に驚いているようだ。
部屋の中は特に散らかった様子もない。寝床から少し離れたところで座り込んでいるそのヒトを見つけテララは事態を把握した。
……ああ、なるほどう。フフッ、そっかそっか。
手間のかかる子ほど可愛いと言うが、どうやらこのヒトはそれを生まれながらにして心得ているようだ。
少なくとも今のテララはそう信じ込んで止まないと見える。少女は少し困り眉で胸を撫で下ろすと、そのヒトの傍まで静かに歩み寄りもう一度手を差し伸べた。
「あまり1人で無理しちゃだめだよ? はい。手、掴んで? 起きられる?」
再度差し出された噛み心地を知る少女の手。
わずかに口を開きかけたようにも見えたが、今度は噛み付こうとはしなかった。ちゃんと躾 けられている。これはもしやテララの姉よりも聞き分けがいいかもしれない。
ぎこちなく添えられたその手をそっと掴む。テララはもう一度優しくそのヒトを引き起こしながら、衣服を探す最中思いついた話題を持ちかけてみた。
「そうそう。そう言えば自己紹介、まだしてなかったね。私はテララ」
「……τ……τ……、α……、……テ……λ……λ……、ラ……?」
「テ、ラ、ラ。私の名前。あなたは? お名前、何て言うの?」
「……テ、ラ……α。……ラ、λ……λ……。τ……テ、……ラ、ラッ!」
「う、うん。それ私の名前だよ? んーー……。まあ……。喉の調子もあると思うから、また今度教えてね?」
「テ、ラ、ラッ!」
「はあーい。フフフッ」
どことなく予想はしていた。無自覚のおとぼけ顔な銀眼のそのヒトから名前を聞き出すことは今はまだできないようだ。
でもよかった。話せないかもしれないって、クス爺言ってたから心配だったけど。この様子だとすぐ話せそう。フフッ。
先ほどから繰り返し自分の名前ばかり連呼するそのヒトに一先ず安心、ご満悦のテララ。
一緒になって小首を傾げ肩を落とす真似をしている様子はどこか嬉しそうにも見えなくもない。
それにはテララもつられて顔がほころぶ。
「それじゃ、身体洗うから下りよっか。外でね、身体洗えるんだけど、行けそう? 手、支えててあげるから、ゆっくりで平気だから私について来てね?」
「テ、ララ……?」
「うん。なあーに? もしどこか痛かったら教えて? すぐ引き返すから。それじゃ私と同じ足を出してみよっか。よいしょっと。ほら、真似してみて?」
そう言って銀眼のヒトの両の手を引きながらテララは後ろ歩きで先導しはじめた。
本名未だ不明。されど素直で定評のそのヒトはその評価に恥じることのない従順ぷりだ。小山であれほど恐ろしい形相でテララに襲いかかったとは考えもつかないほどだ。すがるように少女の手をしっかりと握り締め、一歩一歩懸命にその跡を追ってゆく。
たまに身体を支え損ねて慌ててテララの手にしがみ付くのだが、それがもうとてつもなくたまらない。慎重を要する場面に違いないのだが、テララは嬉しくて気が散ってしかたがない。
フフッ。何だか私がお姉ちゃんになったみたい。妹がいたらこんな感じなのかな? っと、いけない、いけない。余計なこと考えてたら危ないよね。集中しなくちゃ。
部屋の暖簾をくぐり居間に出ると天窓からは昇った太陽が顔を出していた。水場に伏せられた鍋がその日差しを跳ね返して少し眩しい。姉の階段下には昨晩の祭事で使われたチサキミコの衣服が脱ぎ捨てられたまま放置されている。外への戸口脇には急ぎ置かれた籠やら石斧やらが乱雑に置かれたままだ。
いつもよりも少し落ち着かない風景。それでもテララにとってはどうと言うことない光景だ。
だけども、少女に手を引かれるヒトの銀の瞳にはどれも異様で異質で、理解が追いつかない新鮮さに満ちているようだった。
「テ、ララッ! テラ、ラッ! テッララッ! ラッララッ!!」
どうやら先程まで居た空間とはまた異なる世界が眼前に広がり、少々というかものすごく興奮しているらしい。その銀の目を真ん丸に見開き、ふらつく足下よりも頻 りに部屋中のあらゆる物に目線を巡らせている。それはもう、閉じたばかりの首の傷が裂けんばかりにだ。
「あわわっ!? ちょ、ちょっとお!!? 危ないようっ!?」
ただでさえ不安定な足取りが大きくふらつき、より一層危なっかしくなる。
それを支えるテララはもう必死も必死だ。その好奇心をどうにかして歩くことに向けようと懸命に声をかけてみるが。
「あっ!? ち、ちょっとっ!? そ、そんなに余所見、し、してた、ら……! また倒れちゃ……う……キャッ!?」
本日何度目かの地響きが居間に響く。これまたなかなかいい音がした。
一体誰の悪戯か。あろうことか、足元に脱ぎ捨ててあった見覚えのある衣服に足を取られ、文句ない見事な勢いで倒れ込んでしまった。
「いったああああああい……!! もおーーう……!」
やっぱりさっき畳んでおけばよかったあ……。痛いよう……。お尻すりむいてないかな……。
足に絡まったそれは確か、今も自室で寝息を立てている者の祭事用の肌着だ。あれほど脱いだらちゃんと畳んでといつも言っているのに。やられた。少しは目の前で心配そうに顔を覗き込んでいるヒトくらい素直に言うことを聞いてほしいものだ。
「いててててっ……。ハハハッ……、ごめんね。私が倒れちゃったらだめだよね。気を付けます……。いてて……。」
幸いにも倒れる間際に咄嗟に手を離したため、銀眼のヒトがつられて倒れることはなかった。まだ辛うじて一人で立っている。なのにだ。床で尻をさするテララの様子をしばし見詰めた後、間もなく何かを思い付いたらしい。その銀の目を丸くして不審な動きを見せはじめた。
「……え? あっ!? ちょっとっ!! 危なっ……!?」
本日何度目かの。以下省略。
なんと驚くことに、と言うか呆れることに、そのヒトは躊躇 することなく自身も後方によろめきわざと尻をついてみせたのだ。そして止 めと言わんばかりにその小さな尻を見よう見真似にさすってみせている。
「テララッ! テ、ララッ!」
「なっ……んもーー! こんなこと真似しなくていいのーー! また怪我しちゃうよ? ……フフッ、もしかしてあなた。お姉ちゃんみたいに意地悪なの? ……フフフッ、アハハハハッ!」
また声を張り上げるのかと思わず銀眼のそのヒトは身構えた。
けれど、今度の少女の声は何やら胸の辺りが軽くなる。そんな心地良さがあるものだった。
突然笑い出したテララに不意をつかれ呆気に取られたように口をあんぐりとさせている。それでも、その温もりだけは伝わっているらしい。きっと無意識なのだろう。少女の笑い声に釣られてその銀の目は細く弛 み、口をわずかばかり横に広げていた。
寝起き直後の程度であればただの寝不足だと、からかう姉をあしらえたかもしれない。だがしかし、流石にこれはだめだ。姉に衣服の下に肌着を着させるほど無理な話だ。
再度目をこすって重く垂れてくる瞼の納まりどころを決めてから、今度は取りつくろうことなく純粋に無垢な笑みを浮かべて勢い良く立ち上がった。
「……それじゃ、朝ご飯にしよっか! お腹、空いてるでしょ? あ……、それとも身体、洗うの先にする? そのままだと、そのう……。あまり気分よくないよね……?」
袖をまくりながら自慢の特技をもって持て成そうと意気込む半月目の少女。しかし意欲的に提案してみたものの、寝床に座り込んだヒトの容姿を改めて見て代案を持ち掛けずにはいられなかった。
何せ銀眼のそのヒトは昨日の惨事以来、黒く乾いた血の痕で身体中を覆われたままだったからだ。手当を受けた患部辺りは幾分拭われてはいるが、下手に身体を起こすこともできず大半はそのままとなっていた。耳や目元を覆うほどに長い髪はその色が定かではないほどに、まるで血を吸ったかのように赤黒く染まってしまっている。身に着けている白地と思われる衣服も両袖は引き千切られ、腹が剥き出しになるくらいに酷く破れ血痕が至る所に飛び散っている。どう見ても、そのままでは美味しくご飯を頂けそうにない有り様だった。
頭の先から爪先まで忌避するような視線で見つめられ、銀眼のそのヒトは首を傾げている。少女の視線に促されて四肢を持ち上げその先の何かを探してはみるが当然何も見つからない。こちらも半月目ほどではないにせよどこか困り顔だ。
そんなあどけない仕草に思わず表情も和む。こうも素直に反応されるとどうも世話を進んでしたくなるのがテララである。
「着替えの服、探してくるから背丈見せて欲しいんだけど……、立てそう?」
寝ぼけて一人で起きられない姉に差し出すようにそっと伸ばされた手。
目の前のそれに反射的に開きかける口。
「――あっ! 噛み付くのはなしだよ? あれ……、すごく、ちょっと痛かったんだもん……」
別に悪気があった訳ではないにせよ噛み応えを知っているそれをお預けにされ、銀眼のそのヒトはどこか切なげだ。
こればかりは仕方がない。昨日噛まれた左手はまだ傷が癒えず、手当はしてもらったものの痛くて使いものにならなかった。これでもし伸ばした右手を噛まれようものなら、一体誰が明日からこの家の家事をするというのか。姉に任せようものなら、冗談ではなく下手をすればこの家が壊れて倒壊しかねない。何気ない一瞬ではあったが、その実、生死を決めるほどとてつもない重大な局面であったに違いない。だからこそ今のは危なかった。
しかし、それはそれとしてどうしたものか。手は噛まれずに済んだものの、銀眼のヒトは差し出されたそれにどう反応して良いのか分からないらしい。テララの顔とその手を交互に見詰めては視線を巡らせるばかり。右へ、左へ。小首を傾げながら考え込んでいるように見える。下手に怒らせたりしなければなんともいじらしく、やはり愛らしくさえ思えてくる。
フフッ。何だかちょっと可愛いかも?
密かにそんなことを思いながら静かに待っていると、やがてそのヒトは恐る恐る自身の手を伸ばし、ようやっと指先をテララの手にかけることができた。
「そう! 上手! 上手! それじゃ手を引くから、ゆっくり立とうね」
テララはその手をそっと包むと、傷口に障らぬように赤子に掛け布をかけるよりも優しくその手を引き起こしてやった。
慣れない動作にそのヒトは危なかしくよろめいて、テララの細腕にしがみ付きながらなんとか立ち上がろうと奮闘してみせる。
「ほら頑張って! もうちょっと! もうちょっとだよ? よいしょっ! よいしょっ……! ゆっくり、ゆっくりでいいからね」
赤ちゃんが初めて立ち上がるのってこんな感じなのかな? 私たちが立とうとしてるのを見て、お母さんどう思ったんだろう?
今、かつての母親と同じ物を見て考えている。そんな風に思うと少し嬉しい。震えるその手を支えるテララも、その懸命な姿に知らず知らずの内に力が入っているみたいだ。
それまで一度も立ったことがない乳飲み子のように、爪先、足首、膝、腰へと少しずつ重心を確かめながら力を込めていく。途中、態勢を崩して足を捻りそうになりながらも、背が強張って丸まったままではあるがなんとか立ち上がることができた。
――あっ! 危ないっ!? 思わず嬉しくて拍手しそうになっちゃった。今、手を放したら、また怪我させちゃうよね。いけない、いけない……。
「ふう……。あ、上手、上手! 身体、痛かったら教えてね? ……うーーんと、私より少しだけ小さい、のかな? 私が前着てたので足りそうだね。一度試してみよっか」
テララは自分の頭頂部に手の平を当ててその高さを確認してから、そのままその手を銀眼のヒトの頭上へと移し手とその差を計った。だいたい拳二個と半分くらいだろうか。背が丸まっている分は、まあ取るに足らないだろう。もし丈が足りないようなら姉に充てるつもりだった物を使えばいい。それで決まりだ。
そのヒトの背丈をおおよそ見当をつけると、もう一度支えながら寝床に腰かけさせてやる。
やっと立てたかと思えばすぐまた座る。次々と変わる状況に完全に置いてきぼりをくらっているその銀の目はただきょとんとテララの顔を見上げるばかり。
……あ、やっぱりちょっと可愛いかも!?
その上目遣いにはたまらなく母性をくすぐられる。これはもしや天性の魅惑を備えた逸材ではないだろうか。おそらく自覚してないだろうが、密かに悶えるテララの声色は浮ついているようだ。
「フフッ。何も心配いらないよ? 代わりの服ちょっと探してくるから、そのまま待っててくれる?」
完全に困惑しているそのヒトに再び微笑みかけると、母性に翻弄された少女は嬉しそうに部屋の
一人部屋に残された銀眼のヒト。テララが視界からいなくなると今度は視線のやり場に困ったのか。何かを探すように部屋の中をぐるりと見渡しはじめた。
その部屋はそのヒト一人が納まるには少々広すぎるようだ。寝床の寸法は大人一人十分に横になれるほどの大きさがある。衣服を仕舞う箱も大きい物がいくつもあり、置かれた椅子に腰掛けても足が着けないだろう。どれも子供が扱うには不便そうな家具ばかりだったが、その全てが埃一つなく整理されていた。
家事の心得がある者であれば、その整えられた部屋から家主の品性を伺え知り称賛するだろう。
だが、今そこに居るのは素性もまだ分からない訪問者。一人で立つこともままならない、いたいけさが残る子供だ。一通り見て回ったものの関心を惹く物が生憎見当たらなかったらしい。銀の視線はやがて自身の四肢に落ち着き、傷を確かめるというより、どこか物珍しそうにそれらを持ち上げては舐め回すように眺めはじめた。やせ細って貧弱というわけでもなく、余分な肉が付いて太いわけでもない。まるで"計られた"ような必要最低限の無駄のない整った手足だ。それは恐らく、最近ちょっとお腹の肉のたるみを気にしているテララの姉からすれば嫉妬したくなる代物だ。そんな均整のとれた手足を見るのに夢中になって身体を捻りもつれさせ、寝床の上で一人もがき苦しんだ後、次はどうやら再び立ち上がるつもりのようだ。両足を床の上に垂らし、身体を支えようと試している。しかし、テララの補助なしではまだ自立するのはやはり
その物音を聞き付け、負けず劣らずの慌ただしさでテララが何事かと部屋に駆け込んできた。
「どっどどっ、どうしたのっ!!!?」
尻を打ち付けた当の本人は自身の状態に然程関心はないらしい。むしろつい先程までの穏やかな表情とは打って変って、深緑の瞳を大きく見開き声を張り上げる少女に驚いているようだ。
部屋の中は特に散らかった様子もない。寝床から少し離れたところで座り込んでいるそのヒトを見つけテララは事態を把握した。
……ああ、なるほどう。フフッ、そっかそっか。
手間のかかる子ほど可愛いと言うが、どうやらこのヒトはそれを生まれながらにして心得ているようだ。
少なくとも今のテララはそう信じ込んで止まないと見える。少女は少し困り眉で胸を撫で下ろすと、そのヒトの傍まで静かに歩み寄りもう一度手を差し伸べた。
「あまり1人で無理しちゃだめだよ? はい。手、掴んで? 起きられる?」
再度差し出された噛み心地を知る少女の手。
わずかに口を開きかけたようにも見えたが、今度は噛み付こうとはしなかった。ちゃんと
ぎこちなく添えられたその手をそっと掴む。テララはもう一度優しくそのヒトを引き起こしながら、衣服を探す最中思いついた話題を持ちかけてみた。
「そうそう。そう言えば自己紹介、まだしてなかったね。私はテララ」
「……τ……τ……、α……、……テ……λ……λ……、ラ……?」
「テ、ラ、ラ。私の名前。あなたは? お名前、何て言うの?」
「……テ、ラ……α。……ラ、λ……λ……。τ……テ、……ラ、ラッ!」
「う、うん。それ私の名前だよ? んーー……。まあ……。喉の調子もあると思うから、また今度教えてね?」
「テ、ラ、ラッ!」
「はあーい。フフフッ」
どことなく予想はしていた。無自覚のおとぼけ顔な銀眼のそのヒトから名前を聞き出すことは今はまだできないようだ。
でもよかった。話せないかもしれないって、クス爺言ってたから心配だったけど。この様子だとすぐ話せそう。フフッ。
先ほどから繰り返し自分の名前ばかり連呼するそのヒトに一先ず安心、ご満悦のテララ。
一緒になって小首を傾げ肩を落とす真似をしている様子はどこか嬉しそうにも見えなくもない。
それにはテララもつられて顔がほころぶ。
「それじゃ、身体洗うから下りよっか。外でね、身体洗えるんだけど、行けそう? 手、支えててあげるから、ゆっくりで平気だから私について来てね?」
「テ、ララ……?」
「うん。なあーに? もしどこか痛かったら教えて? すぐ引き返すから。それじゃ私と同じ足を出してみよっか。よいしょっと。ほら、真似してみて?」
そう言って銀眼のヒトの両の手を引きながらテララは後ろ歩きで先導しはじめた。
本名未だ不明。されど素直で定評のそのヒトはその評価に恥じることのない従順ぷりだ。小山であれほど恐ろしい形相でテララに襲いかかったとは考えもつかないほどだ。すがるように少女の手をしっかりと握り締め、一歩一歩懸命にその跡を追ってゆく。
たまに身体を支え損ねて慌ててテララの手にしがみ付くのだが、それがもうとてつもなくたまらない。慎重を要する場面に違いないのだが、テララは嬉しくて気が散ってしかたがない。
フフッ。何だか私がお姉ちゃんになったみたい。妹がいたらこんな感じなのかな? っと、いけない、いけない。余計なこと考えてたら危ないよね。集中しなくちゃ。
部屋の暖簾をくぐり居間に出ると天窓からは昇った太陽が顔を出していた。水場に伏せられた鍋がその日差しを跳ね返して少し眩しい。姉の階段下には昨晩の祭事で使われたチサキミコの衣服が脱ぎ捨てられたまま放置されている。外への戸口脇には急ぎ置かれた籠やら石斧やらが乱雑に置かれたままだ。
いつもよりも少し落ち着かない風景。それでもテララにとってはどうと言うことない光景だ。
だけども、少女に手を引かれるヒトの銀の瞳にはどれも異様で異質で、理解が追いつかない新鮮さに満ちているようだった。
「テ、ララッ! テラ、ラッ! テッララッ! ラッララッ!!」
どうやら先程まで居た空間とはまた異なる世界が眼前に広がり、少々というかものすごく興奮しているらしい。その銀の目を真ん丸に見開き、ふらつく足下よりも
「あわわっ!? ちょ、ちょっとお!!? 危ないようっ!?」
ただでさえ不安定な足取りが大きくふらつき、より一層危なっかしくなる。
それを支えるテララはもう必死も必死だ。その好奇心をどうにかして歩くことに向けようと懸命に声をかけてみるが。
「あっ!? ち、ちょっとっ!? そ、そんなに余所見、し、してた、ら……! また倒れちゃ……う……キャッ!?」
本日何度目かの地響きが居間に響く。これまたなかなかいい音がした。
一体誰の悪戯か。あろうことか、足元に脱ぎ捨ててあった見覚えのある衣服に足を取られ、文句ない見事な勢いで倒れ込んでしまった。
「いったああああああい……!! もおーーう……!」
やっぱりさっき畳んでおけばよかったあ……。痛いよう……。お尻すりむいてないかな……。
足に絡まったそれは確か、今も自室で寝息を立てている者の祭事用の肌着だ。あれほど脱いだらちゃんと畳んでといつも言っているのに。やられた。少しは目の前で心配そうに顔を覗き込んでいるヒトくらい素直に言うことを聞いてほしいものだ。
「いててててっ……。ハハハッ……、ごめんね。私が倒れちゃったらだめだよね。気を付けます……。いてて……。」
幸いにも倒れる間際に咄嗟に手を離したため、銀眼のヒトがつられて倒れることはなかった。まだ辛うじて一人で立っている。なのにだ。床で尻をさするテララの様子をしばし見詰めた後、間もなく何かを思い付いたらしい。その銀の目を丸くして不審な動きを見せはじめた。
「……え? あっ!? ちょっとっ!! 危なっ……!?」
本日何度目かの。以下省略。
なんと驚くことに、と言うか呆れることに、そのヒトは
「テララッ! テ、ララッ!」
「なっ……んもーー! こんなこと真似しなくていいのーー! また怪我しちゃうよ? ……フフッ、もしかしてあなた。お姉ちゃんみたいに意地悪なの? ……フフフッ、アハハハハッ!」
また声を張り上げるのかと思わず銀眼のそのヒトは身構えた。
けれど、今度の少女の声は何やら胸の辺りが軽くなる。そんな心地良さがあるものだった。
突然笑い出したテララに不意をつかれ呆気に取られたように口をあんぐりとさせている。それでも、その温もりだけは伝わっているらしい。きっと無意識なのだろう。少女の笑い声に釣られてその銀の目は細く