第15話 三つの椀

文字数 7,103文字

「んーー! おいしそうな匂い!」

 鍋の蓋をどけた途端、少女の笑みを甘くて白い湯気が柔らかく包み込む。

「おっほほほおおおおおおっ!! フヒハハハハーーーーッ!!

 きっと出汁に使ったスクートスのミルクも何度も丁寧に()されたのだろう。酸味がなくくせのない甘みが吐息に混ざって、起きたばかりだというのにまた微睡(まどろ)んでしまいそうになる。

「待ってたよーーう! 飯だっ! 飯だっ! 飯いいいいっ!!

 見たところ、ホルデムの籾殻(もみがら)も丁寧に取られていて、煮立たせてもどこにも濁りが見て取れない。真っ白な粥の真ん中に添えられた薄黄色のドゥ―ルスの実が際立って、控えめな見た目とは違ってとても美味しそうだ。

「早くっ! 早くっ! 早くちょうだいっ!! フヒヒヒヒーーッ!!

 先ほどから粥をよそうテララの手元で涎を止めることも忘れただらしない姉の顔がちょっとうるさい。

「フフフッ。そんなに近づいたら火傷しちゃうよ? はい、お姉ちゃん。お待たせ」
「やったあああああ!! あったしの来たああああああっ!!!!

 多めに盛られた好物を目の前に血走った目が少し怖い。
 それにしても、年上でありながら無邪気に催促するその表情には、いつもつい気を許してしまうのがテララだ。
 これが毎度確信犯だとするなら、なんと欲に従順で妹の弱みを知り得た策士なことか。無自覚だとしたなら天晴れにさえ思える。まあ、前者は絶対にあり得ないにしても、(あなど)れない姉。その人である。
 姉への無駄で無用な憶測もほどほどに、次いで少年の分をよそう。普段は奥に仕舞って使わない三つ目の椀に湯気で(かす)む粥をよそい、不思議そうにそれを見詰める銀の目の前にそっと置いた。

「それから、はい。こっちがあなたの分。遅くなっちゃってごめんね。少し熱いから気を付けて?」
「テ、ララ……? ゴハ、ン?」
「そう。ご飯。お腹空いたでしょーー? 沢山あるから一杯食べてね」

 傾いた丸い銀の瞳が床に置かれたそれをまじまじと見詰めている。
 その微笑ましい様を横目にテララは自分の分をよそうと、少年の隣に座り直してから静かに目を閉じ両の手を合わせた。
 今まさに湯気を冷ましその至福の一口目を頬張ろうとしていた姉も、妹のその仕草に気付くと露骨に面倒くさがりながら匙を置いて合掌した。
 そして、姉妹は母大樹への礼拝と同じように合わせた手首を回し、両の手の平を左右の手首に添え浅く頭を垂れる。

「母大樹様より(たま)う御恵みに感謝を……」
「母大樹様より、たまあーー……っ!? もういいでしょっ! 我慢できっ…………んっほほほほーー! うんまひーーっ!!
「もう、お姉ちゃんたら、行儀悪いんだからあ!」
「いふもやってないんだからいいれひょ。ほの子の前だからっへ変に格好つけうのやめはら?」
「そっ!? そんなことないもん! 私はちゃんとしてるもん!? もーーう……、いただきます!」

 我が家で面倒を看るならちゃんとしてあげないとだし。まだ歩いたり、話したりだって上手くできないくらい大変そうなんだもん。可愛いとかそういうんじゃなくって、ほんとにそんなんじゃなくて。私がちゃんとしてあげなくちゃって思っただけだし。別に悪いことじゃないんだから意地悪言わないでよ。もうーー! んっ!? はふはふっ!? 熱いいいいいいっ!?
 うっかり頬張り過ぎた粥がまだ十分に冷めきっていなかったせいか。密かにちょっとだけ、香辛料一()まみくらいに盛ったお姉ちゃんぶりをあっさりと言い当てられてしまったせいか。テララの頬と耳が赤い。
 この家で唯一の良き手本と成り損ねた少女は慌てて水を含む。
 熱かったあ……。もう、お姉ちゃんのせいで味、分からなかったよう。むう……。
 椀に顔を(うず)めて粥に食らいつくその人には、尖った口で水をすする妹のことなんて文字通り眼中にないご様子。
 どちらが悪いという話でないにせよ、不覚にも(しび)れてしまったこの舌をどうしたものか。すっかりご馳走の最初の一口を味わい損ねてしまったテララは、気を取り直して隣の様子も伺ってみた。
 ちゃんと食べられてるかな……? もう空っぽだったりして。フフッ。喜んでくれてるといいな……。
 そんな風に少し期待しながら目配せしてみたのだが、こちらはどうも(かんば)しくないようだ。
 銀眼の少年は自分の腹に手を当て肩を落とし、その見詰める椀の中身はさっきテララが渡したものと一口も変わらないままだった。その白く細い控えめな眉も可愛そうなほどすっかり垂れ下がってしまっている。

「どうして……」

 そこまで言い掛けて、テララは慌てて口をつぐんだ。
 ううん。そうじゃないよね。

「気付かなくてごめんね。えっと、これはね。こうして(さじ)を持ってから、こう(すく)って食べるんだよ? できる?」
「ンギ……? タ、ベ、ウ?」

 この子一人、(ろく)にご飯も食べさせてあげられなくて何がお姉ちゃん面なんだか。
 浮かれてしまっていた自分を一喝して、少年に解ってもらえるまでテララは何度も粥の食べ方を説いてみせた。
 一つ一つ。勝手な思い込みで省くことなく、丁寧に目の前で食べて見せるのだが、少年の小首はどんどん(かし)いでいくばかりでどうも伝わっていないらしい。
 ちょっと(らち)が明かない。このままだと、せっかく美味しい粥が冷めてしまう。冷たいご飯を悲しそうに食べる顔なんてここまで来て見たくはないだろう。

「そしたらねえ。ちょっと待ってね……」

 テララは見兼ねて少年の右手に匙を握らせてやった。次いでその手を掴んで粥を(すく)い、少年の口元までそれを宛がってやる。これならどうだ。
 しかし、されるがままの少年は口元に寄せられた粥を目の前にしても尚理解が及ばないのか戸惑っている。

「それをね? あーーんって。口をねこう、あーーんて開いて、食べるんだよ?」
「アーーン……?」

 何度も隣で口を大きく開け閉めしてみせるテララに促され、少年はやっとその口を少しだけ開いた。
 ――今だっ!?
 この家一番のお手本目指して密かに再び燃えるテララはその瞬間を見逃さなかった。驚かさないようにゆっくりと且つ素早くしなやかな手つきで掬った粥をその口の中へと運ぶ。
 ――入った!?
 そんな少女が奮闘する一方。姉はと言うとまだ粥を頬張っていた。少しは姉らしく手伝ったらどうかと思うのだが、粥に埋もれた好物の実を探すのに夢中のこの人においては期待するだけ無駄か。

「ちょっと早かったかな? ごめんね。口、もう閉じていいよ?」
「……アググ?」
「うん。そうそう。そしたらね、あむあむって噛んでから、呑み込むの。ごっくんって。できる?」
「ング…………ンッ!? ンーー!! ヘラッ……!!!?
「あわわ!? おいしい? フフッ、うんうん。おいしいね。よかった。でも、口に食べ物入れてるときは開けちゃだめだからね?」

 口内に異物が接触するや少年の表情は瞬く間に晴れやか一色に変わった。銀の瞳を丸く輝かせ飛び跳ねんばかりに上体を揺すってみせている。軋む床が抜け落ちないか少し心配になるくらいだ。
 そんな感激の波に揺れ踊る銀眼の少年とは裏腹に、テララはまだ気が抜けない。少年の口から粥がこぼれないように手を添えたまま、目の前で粥を呑み込む手本を何とか解ってもらおうと苦戦中だ。ほんの一口の食事を教えるだけでも本当に一苦労だ。

「フフフッ、そんなにおいしかった? おいしい。おいしい。フフッ。そしたら後ちょっとだよ? 最後は、こう、ごっくんごっくんって呑み込むの。喉、詰まらせないように気を付けてね? できそう?」
「ンーーッ!? ンーーッ!! ンーーッ!!!」

 あ、今度はちゃんと伝わったみたい。
 相変わらず身体は大きく揺すったままだったが、今度は素直に口を閉じたまま、大きく何度も(うなず)いて咀嚼(そしゃく)する仕草をしてみせてくれた。傷は(ふさ)がったものの、首筋にまだ残る縫合跡が少し痛々しが、この調子なら問題なさそうか。
 上手く呑み込めるのか気がかりでならない少女は母性がうずきぱなし。そしてちゃんと食べられるかひやひやしっぱなしったらない。
 やがて少年の大げさな咀嚼は止み、テララは添えた手を下ろしてその口の様子を伺った。

「どう? ちゃんと呑み込めた? あーーんって、口開いて見せてくれる? あーーん?」
「……アーーン?」
「――って、あわわわっ!? だめだめだめっ!!!?

 ――これはだめなやつだっ!!
 なんと驚き。テララに促されて開かれた口の中から、少しも減った様子のない粥がこんにちはしてるではないか。これはすぐさまその口を閉じてやらないと――。

「おっ、落しっ!? ちゃったね……。んーーやっぱり難しいのかなあ……」

 間に合わなかった……。何で手、下ろしちゃったんだろ私……。はあ……。
 なんたる不覚。これ見よがしに大きく開かれた口から折角の食事が見るも無残に床に(こぼ)れ落ちてしまった。ついさっきまでの大げさな咀嚼の仕草は一体何だったのか。

「……ブフッ!? アハハハハハハハハッ!! あ、あんたたちヒヒッ、何やって、ブグッ……! クククッ! アハハハハハハッ!!

 後ろでちゃっかり二杯目の粥を頬張っていた姉も、流石にそれには大爆笑だ。床に倒れ込んで腹を抱えたまま笑い転げている。

「もーー。笑ってなんでお姉ちゃんも手伝ってよーーう!」
「フヒヒヒヒヒッ……あへ? んあーー、仕方ないねえ。……フフッ。じゃ、じゃあ、ちょっとだけだよ? クフフッ」

 相当面白かったのか、これは当分笑いが納まらないやつだ。それにしても笑いすぎだ。健闘むなしく破れてしまった幼い母性の功労者が気の毒でならない。
 けれどそこは一応姉。床に落ちてしまった粥を惜しみながら片付ける妹の無念を晴らすべく、知恵を貸すため渋々膝を付いて立ち上がった。そして肩や腕、手首の節をほぐしながら銀眼の少年の背後に回り込んだ。

「そんじゃ、もう一度この子の口に粥入れてあげな。そしたら上を向かせてやって」

 姉の指示の通りにテララはもう一度粥を少年の口に入れてやり、今度は口が開かないように押さえたまま頭を少し上に傾けてやった。一体、どうするつもりなのだろうか。

「苦しかったらごめんね? それで? ここからどうするの?」

 すると姉は(おもむろ)に両手を真横に広げ、静かに瞼を閉じた。
 そして流れる少しの静寂。
 深く長く整えられる呼吸。その顔は心なしか村長(むらおさ)として務めを果たすチサキミコの厳格ささえ感じられる。
 粥を含んで揺れ踊る銀と少し不安で(いぶか)しげな深緑の二つの視線がその次なる一手に注がれる。
 一筋の汗が喉を伝う。そしてついに青緑の目が大きく開け放たれ、鋭く立てられた指が少年に襲いかかった。

「こうしてやれば嫌でも呑み込んじゃう、でっ、しょっ!! それそれえっ!! こちょこちょこちょこちょこちょこちょーーっ!!!!
「ンッ!!!? ンーーッ!! ンンーーッ!!!?

 くすぐりだした。猛烈にくすぐりだした。気が済むまで飯を(むさぼ)った後の姉のその動きは、大の大人であっても成す術なく、されるがままとなってしまうに違いない。その身のこなしもさることながら、指の一本一本がまるで意思を持っているかのようだ。一切の(よど)みなくそれでいて尋常でない早さ。早すぎてその動きを目で追うことなんてできない。まさに凡人では到達し得ない洗練された至高の技。恐ろしく完璧で呆れる動きだ。

「ええええっ!? お姉ちゃん、ちょっと何してっ!? ――キャッ!?

 その突然の奇行にテララはたちまちに弾き飛ばされてしまった。なんて気迫か。
 すぐに止めなくちゃ……! で、でも……。
 喉に詰まらせてしまっては大変だ。直ぐに止めたい気持ちはある。だけども、その顔色は何故か真っ青だ。恐ろしい何かに怯えるようにテララの顔は引きつり、床に倒れたまま固まってしまっている。

「……ご、ごめんね……。私……、お姉ちゃんの、こ、これ……。これだけは……、止めてあげられないよう……。本当にごめん……!」

 嗚呼(ああ)、何と哀れ銀眼の少年。(うら)むことなかれ白くか弱き者よ。
 意表を突かれた突然の刺激に身悶えよじらせ、少年はその害意より逃れようと必死にもがく。
 しかし、そうはさせないチサキミコの指捌(ゆびさば)き。テララのものとは比べ物にならない洗練された技は、少年の動きを先読みし逃がすことなくくすぐり続ける。小さな身体から非力な抵抗を問答無用に崩し去ってゆく。

「ンンンンッ!!!? ンンッーーーー!! ウンンッ!! ウッ! ウッ! ウッ!! ンッーー!? ウンンッーーーー!!!?

 そして、少年の声にならぬ悲鳴が炉の火が揺れる居間に哀れに響く中、ついにその口内の粥が周囲の者にも聞こえるほどに生々しい音を立て喉を流れ落ちて行った。

「……ングッ!? ………………テララッ! ゴハンッ! ゴ、ハンッ!!!?

 苦しすぎる食事の手ほどき。不幸中の幸い。いや不幸の割合が多かった気もするが、ようやっと粥の味を堪能することができた少年。その満足なことこの上ない表情ときたらない。腹に手を当てて身体の芯に感じるその温もりに興奮しているようだ。先程まで村の長に玩具にされていたというのに、なんて無垢で素直な少年か。
 その様子を見届け自分の席に戻った姉は胡坐(あぐら)をかいてどこか満足げだ。
 姉と共に惨劇が去ったことにはたと気付き、身体の自由を取り戻したテララも弱々しく座り直した。本当にいろいろ見苦しすぎる食事の手ほどきだった。

「……も、もうお姉ちゃんたら。びっくりしたあ……」
「ハハハッ。随分とうまそうに食べるじゃないか。くすぐった甲斐があったよ」
「急にくすぐることないじゃない。喉に詰まらせたら危ないのに……」
「あたしの指に限ってそんなの有り得ないよ。何なら、あんたも試してみる?」
「い、いやっ!!!! 絶対っ!! ぜーーったい嫌だからねっ!!!! 振りじゃないからねっ!!!?
「アハハハッ。冗談だよ。じょーーだん。はあ、楽しかった!」

 姉妹の主にテララの苦労の甲斐もあって、銀眼の少年はゴハンの意味を理解できたらしい。不器用ながらも匙を両手で握りしめて、椀を床に置いたまま一心不乱に粥をその口に掻き込んでいる。

「ゴハン! ゴッハン! テッラッ……ゴッハッ! ゴッハ……ン!!

 味覚を刺激するその味が相当気に入ったのか。食べながらテララを呼んでその興奮を伝えようとするものだから、瞬く間に床が溢れた粥でご丁寧に白く飾られてゆく。どうやらまだ少し食べ方については教える必要があるみたいだ。
 食事を喜んで食べてくれることは素直に喜ばしいのだが、後片付けがやはり少々気にかかってしまう。
 ああ……、そんなに溢しちゃって……。フフッ。でも、喜んでくれてるみたいでよかった。

「そう言や、ずっと気になってたんだけどさ?」
「ん? どうかしたの?」

 満腹と満足の余韻に浸りながら、やはり侮れなかったその人は横になりながらあくび混じりにそう問いかけてきた。

「その子、名前何ての? あんたさっきから名前で呼んでないでしょ?」
「ああ、うん……。私も訊いてみたんだけど、教えてくれなくて……」
「それさ? 教えてくれないんじゃなくて、その子、言葉知らないんじゃないの? さっきから聞いてる感じだとさ。自分の名前、分からないって言うより……ないって感じ?」
「それは、そう……なのかな?」
「なら、あんたが付けてあげたら? 自分から話してくれるようになるまでさ。いつまでも、"あなた"じゃ呼ぶ方も困るでしょ。村のみんなに紹介するにしてもさ?」

 姉のすごく(まれ)すぎる改まった言葉に一瞬戸惑いはした。だが、テララも当初から同じ疑問を抱えていたことに違いはなかった。
 この子の名前……。私が……?
 手に持った椀の粥を眺めたままテララは考え込んでしまった。

「先に言っとくけど。"カユちゃん"なんて可笑しな名前だめだかんね? あと"シロちゃん"とか? あんた、名前付けるの下手っぴなんだからさ?」
「そっ、そんなことないもんっ!」
「いんや、そんなことあるってば。ピウの名前付けたときだって、確かあ……」
「あわわわわっ!? そ、その話はいいでしょっ! んもうっ! ちゃんと考えるんだからっ! 変なこと言わないでよう……!」

 卵から(かえ)ったばかりの産声がどうの、今言及されてはいよいよ精神がもたない。テララは慌てて真剣を装って姉の追撃を阻んだ。
 この子の名前……。何んて呼んだらいいのかな?
 粥を掻き込みながらゴッハン。ゴッハン。と(うな)る少年の名前は果してどうしたものか。少年の横顔を見詰めてテララも唸りながら思案に(ふけ)った。
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