第27話 刻まれた傷痕
文字数 3,035文字
五つほど小山を越えると、正面に棗紫 色の目的地が見えてきた。先日、オオフリがあってから照りつける日の光も鬱陶 しさを増したせいか、いくらか黒茶けてもいる箇所もあるみたいだ。
先程と変わりない調子でテララは小山の麓 に籠を下ろし、意気込んで袖を捲 る。さあ、本日最後の一仕事。これが終わればムーナたちと合流して、また枝笛でも吹いて帰ろうか。
「ソーマと初めて出会ったのも、こんな小山だったよね……」
「………………」
しかし、やはりそう易々とはいかない。できるはずもなかった。
胸の奥深く。自分の存在を賭けて、命の限り叫び刻まれた傷痕 。
また俯 いてしまった少年に、繕 った笑みは今は届かない。
締め付けられる息苦しさが、離れてしまいそうな心細さが怖い。テララはたまらず胸元の首飾りを握り締めて――。
顔を上げよう……。ちゃんと、この場所で伝えておきたい。伝えなくちゃいけないことがあるから。
「あの日……、本当にびっくりしたんだよ? だって急に私の手を掴むんだもん。アハハハ……。でも、ソーマも怖かったんだよね? きっと、私が想像できないくらい怖くて、つらいことがあったんだなって思う」
「…………υ、……υυ…………」
「だから、我慢してね、慣れてねって言うのは、すごく難しくて勝手な話だなって。私もそうだったから……。でも、だから……、ね。これからは私がずっとソーマの傍に居ようと思うの。嫌な気持ちも忘れちゃうくらい、たっくさん一緒に楽しいことしよう。悲しいことがあったら私も一緒に悩んで、泣いてあげる。そしたらきっと、つらかった気持ちも怖くなくなって、本当に笑えると思うから」
今できる精一杯の優しさを込めてそっと呟く。正直、また独りよがりで、伝わっていないのかもしれない。けれど、それでも。テララは思って欲しかった。
ここはつらいことばかりが降り積もった場所じゃない。沢山の人の笑顔が、優しい思い出が生まれることだってある。それはいつかきっとソーマにだって癒しになる。苦しくても支えになってくれる。
だから今は、今だから。怖くても、心細くても、明るく手を引いてあげたい。
「ソーマ、平気? やっぱり気持ち悪くなるみたいなら、向こうで休もっか?」
「……υ、……υυ……、Ουαααααααααα!!!!!?」
「キャッ!? ど、どうしたのソーマッ!?」
突然の咆哮 。
胸の奥がはち切れそうなほど強烈な叫び声が少女の両耳を劈 く。
テララの想いは、敵わなかった 。
色白い肌に紅い血筋が浮き上がり、強張った手で顔面に爪を立てている。抗 いようのない強大な何かが、怯え、悶 え苦しむ銀眼の少年を呑み込んでゆく。
一体何がどうしたと言うのか。
必死に呼びかけるも、萎縮した少女の声などその耳には届くはずもなかった。
聞き親しんだ声がかすれる。視界に映る見知った影がその色を失い、次第に意識の外へと消えてゆく。
銀眼の奥底。頭蓋骨より更に奥。神経組織が無秩序にざわめきだし、そこに刻まれた精神的、肉体的悲鳴が激流となって一方的に脳裏に投影される。
――――イ。
――――――――タイ。
――――イ、――――タイ。
――イタ、イ、――イタイ。
イタイ、イタイ、イタイ、イタイ、イタイ。
イタイ、イタイ、イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ。
頭上に煌めく微かな光にはもう手は届かない。暗闇の中、身体が奥底に沈んでゆく。暗く、深く沈むほどに、その両端、身体の末端からわずかな圧が押し寄せてくる。
それは止まることなく、紅い飛沫 を上げて喰らい付き、やがて。
イタ、イ、ι、ιι、ιιιιιιιι、γιγαγαγαγαγα、γιγι、γαγαγα、γι、γα、γαααααα――――。
身体中が軋 み抉 られてゆく。骨は砕かれ、臓腑は引き裂かれ、視界は赤く歪 に裂け、光を失った。
「……αα、α、ααααα。……Ουαααααααααα!!!!!?」
状況が全く読めない。
だが、一つだけ明らかなこと。一刻も早く落ち着かせなくては、その身がもたないということ。それだけはテララの目にも明らかだった。でも、どうやって――。
つい昨日にも似たようなことがあった。夢見が悪くひどく怯えていたことがあった。
しかし、今目の前で籠を薙倒し地に頭を打ち付け、顔や腕、身体中に爪を立て掻き毟 る獣。そう獣の如く喚 き叫ぶ様は、それとはまるで違う。少年の小さな身体に納まりきらない深く陰湿で黒い感情が溢れ出し、テララをも呑み込んでゆく。
「ソーマ……。ソーマッ!? ね、ねえ! 私の声、聞こえる? ど、どうしよう……。そうだっ! 歌……! あの歌なら!? い、今、ソーマが好きなあの歌、歌ってあげるね? だから――キャアアアッ!!!?」
瞬間、少女の身体が宙に舞った。
――あれ? どう……して……。
テララも無我夢中だった。震える少年の肩を掴んで息を吸った途端、耐えがたい激痛が胸に走った。
地面に叩き付けられるその間際、滲 む視界の先。腕を振り上げ呻 る少年の銀の瞳は、ただ怯えるそれではなかった。
「γυγιγιγι…………。Γυγαγαγαγαγαγα!!!?」
憤懣 か、憎悪か。言葉にできない負の感情がどす黒く渦巻いていた。初めて会ったときと同じ。もしくはそれ以上の害意。
無秩序で見境のない悪意が、一方的に深緑 の目に焼き付けられた。
「ウグッ!? カハッ!? …………ソ、……ソーマ……」
力の限り地に叩きつけられる。淡い願いが、未熟な決意が、胸から、目から弾け飛んだ。引き千切られてぽっかり空いてしまったまっ黒な胸の穴に、どろどろと流れ込んでくる。惨めな気持ち。弱い自分。認めたくないもう一人の自分。
全身に広がる傷みに耐えられても、本能が少女の邪魔をする。家族を想う優しささえ薄れて、身体の、心の自由を奪わってしまう。
……だめ。だめだよ……。こんなんじゃ、だめ……。さっき、言ったじゃない……。
それでも、テララは諦めなかった。諦めたくなかった。
痺 れているのか、震えているのか分からない。力の入らない拳を血が滲むほど握り締めて己を奮い立たせる。頬を地面にこすりつけながら、身体を軋 ませて、引きずるように起き上がる。
一歩、一歩。また、一歩。
きっとまた一人で泣いている家族の下に何度も。何度も。テララは繰り返し寄り添った。
「ソーマ、お願い……。お願いだから、負けないで……。私が――ウッ!? 私が、いる、から……! だから――ウグッ!? お、お願い……ソーマ! ……ソーマッ!!」
狂気に呑まれ血の滲む白い身体に、必死で覆いかぶさる。
けれど、その腕の中で振り上げられる拳が、荒れ狂う底知れない衝動が、少女の身体を、心を打ち、殴り、抉 る。いくつもの青痣 が、その小さな身体に納まりきらないほどに鈍く刻まれていった。
先程と変わりない調子でテララは小山の
「ソーマと初めて出会ったのも、こんな小山だったよね……」
「………………」
しかし、やはりそう易々とはいかない。できるはずもなかった。
胸の奥深く。自分の存在を賭けて、命の限り叫び刻まれた
また
締め付けられる息苦しさが、離れてしまいそうな心細さが怖い。テララはたまらず胸元の首飾りを握り締めて――。
顔を上げよう……。ちゃんと、この場所で伝えておきたい。伝えなくちゃいけないことがあるから。
「あの日……、本当にびっくりしたんだよ? だって急に私の手を掴むんだもん。アハハハ……。でも、ソーマも怖かったんだよね? きっと、私が想像できないくらい怖くて、つらいことがあったんだなって思う」
「…………υ、……υυ…………」
「だから、我慢してね、慣れてねって言うのは、すごく難しくて勝手な話だなって。私もそうだったから……。でも、だから……、ね。これからは私がずっとソーマの傍に居ようと思うの。嫌な気持ちも忘れちゃうくらい、たっくさん一緒に楽しいことしよう。悲しいことがあったら私も一緒に悩んで、泣いてあげる。そしたらきっと、つらかった気持ちも怖くなくなって、本当に笑えると思うから」
今できる精一杯の優しさを込めてそっと呟く。正直、また独りよがりで、伝わっていないのかもしれない。けれど、それでも。テララは思って欲しかった。
ここはつらいことばかりが降り積もった場所じゃない。沢山の人の笑顔が、優しい思い出が生まれることだってある。それはいつかきっとソーマにだって癒しになる。苦しくても支えになってくれる。
だから今は、今だから。怖くても、心細くても、明るく手を引いてあげたい。
「ソーマ、平気? やっぱり気持ち悪くなるみたいなら、向こうで休もっか?」
「……υ、……υυ……、Ουαααααααααα!!!!!?」
「キャッ!? ど、どうしたのソーマッ!?」
突然の
胸の奥がはち切れそうなほど強烈な叫び声が少女の両耳を
テララの想いは、
色白い肌に紅い血筋が浮き上がり、強張った手で顔面に爪を立てている。
一体何がどうしたと言うのか。
必死に呼びかけるも、萎縮した少女の声などその耳には届くはずもなかった。
聞き親しんだ声がかすれる。視界に映る見知った影がその色を失い、次第に意識の外へと消えてゆく。
銀眼の奥底。頭蓋骨より更に奥。神経組織が無秩序にざわめきだし、そこに刻まれた精神的、肉体的悲鳴が激流となって一方的に脳裏に投影される。
――――イ。
――――――――タイ。
――――イ、――――タイ。
――イタ、イ、――イタイ。
イタイ、イタイ、イタイ、イタイ、イタイ。
イタイ、イタイ、イタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイイタイ。
頭上に煌めく微かな光にはもう手は届かない。暗闇の中、身体が奥底に沈んでゆく。暗く、深く沈むほどに、その両端、身体の末端からわずかな圧が押し寄せてくる。
それは止まることなく、紅い
イタ、イ、ι、ιι、ιιιιιιιι、γιγαγαγαγαγα、γιγι、γαγαγα、γι、γα、γαααααα――――。
身体中が
「……αα、α、ααααα。……Ουαααααααααα!!!!!?」
状況が全く読めない。
だが、一つだけ明らかなこと。一刻も早く落ち着かせなくては、その身がもたないということ。それだけはテララの目にも明らかだった。でも、どうやって――。
つい昨日にも似たようなことがあった。夢見が悪くひどく怯えていたことがあった。
しかし、今目の前で籠を薙倒し地に頭を打ち付け、顔や腕、身体中に爪を立て掻き
「ソーマ……。ソーマッ!? ね、ねえ! 私の声、聞こえる? ど、どうしよう……。そうだっ! 歌……! あの歌なら!? い、今、ソーマが好きなあの歌、歌ってあげるね? だから――キャアアアッ!!!?」
瞬間、少女の身体が宙に舞った。
――あれ? どう……して……。
テララも無我夢中だった。震える少年の肩を掴んで息を吸った途端、耐えがたい激痛が胸に走った。
地面に叩き付けられるその間際、
「γυγιγιγι…………。Γυγαγαγαγαγαγα!!!?」
無秩序で見境のない悪意が、一方的に
「ウグッ!? カハッ!? …………ソ、……ソーマ……」
力の限り地に叩きつけられる。淡い願いが、未熟な決意が、胸から、目から弾け飛んだ。引き千切られてぽっかり空いてしまったまっ黒な胸の穴に、どろどろと流れ込んでくる。惨めな気持ち。弱い自分。認めたくないもう一人の自分。
全身に広がる傷みに耐えられても、本能が少女の邪魔をする。家族を想う優しささえ薄れて、身体の、心の自由を奪わってしまう。
……だめ。だめだよ……。こんなんじゃ、だめ……。さっき、言ったじゃない……。
それでも、テララは諦めなかった。諦めたくなかった。
一歩、一歩。また、一歩。
きっとまた一人で泣いている家族の下に何度も。何度も。テララは繰り返し寄り添った。
「ソーマ、お願い……。お願いだから、負けないで……。私が――ウッ!? 私が、いる、から……! だから――ウグッ!? お、お願い……ソーマ! ……ソーマッ!!」
狂気に呑まれ血の滲む白い身体に、必死で覆いかぶさる。
けれど、その腕の中で振り上げられる拳が、荒れ狂う底知れない衝動が、少女の身体を、心を打ち、殴り、