第16話 銀眼の名

文字数 7,191文字

 左に頬杖ついては(うな)り、右については唸り。また左に傾いたかと思えば今度は頭を抱えて尚唸る。その頭を振り動かす様はまるで風になびくホルデムか、もしくは鍋の中で煮転がる干し肉のようだ。

「あんたさあ。熱心に考えるのはいいんだけど、もうちょっと静かに考えられない? そんなに苦しそうに唸られたら、気になって旨い飯の味も分かんなくなるでしょうよ」
「うーーん……。そうなんだけどう……。そうなんだけどう……。うーーん……。うーーーーん……」

 ああ、これまた長くなるやつだ……。
 面倒事には鼻が利く姉だ。そう睨むや残りの粥から少年の分をちょっとだけ取り分けてやると自分の椀によそいもせず鍋ごと食べはじめた。欲張りにもほどがあるだろうに。いや、この姉に我慢や限度など求めるだけ骨折り損というものだったか。
 これはきっと早くしないとテララの分も横取りされてしまうかもしれない。そうに決まっている。そんな光景が易々と目に浮かぶ。というかもう既に姉の目に映っている。
 知らぬ間にまたしても空腹の危機が健気な妹を襲ってしまうのだろうか。今まさに強欲な食欲の化身となったその者の手が、まだ(ろく)に減りもしていない椀に伸ばされたその瞬間。
 悩める少女に何やら進展があったようだ。
 ……チェッ。今ならいけると思ったのに。

「…………ん? 何だろ?」

 まだ粥を(むさぼ)る少年に向けられた視線の先に、何やら異様な物が映り込んでいた。
 少年の右耳の後方。耳の付け根と髪の生え際のちょうど間。少し骨ばった辺りに汚れのような物が微かに見て取れた。
 銀眼の少年の身体を洗っていた際には気が付かなかった。テララは自分の不始末を責めつつ、白い髪を掻き分けてその汚れを拭おうと指で払った。

「ちょっと……、ごめんね――」

 しかしどういう訳だ。払い除けても尚、その汚れのようなものは少年の耳の後ろに依然として残ったままだった。
 あれ? 取れてない? なんだろこれ……?
 テララは無意識にその正体を探ろうと顔を近づけてみる。

「ちょちょちょちょっ!? 何っ!? 何っ!? 何いっ!? その子のこと一生懸命考えすぎて恋しくなちゃった???? まだ昼過ぎだってのに! お姉ちゃんの前だっていうのに! 口付けしたくなっちゃったあ!? やだもう! なんてふしだらな子!」
「え……? えっあっち、違うっ!? 違うったらっ!!!? ふ、ふしだらだなんて、お姉ちゃんが言わないでよーー!」

 ごもっともである。

「み、耳の後ろに何か付いてるみたくて。たっ、確かめたかっただけだようっ! くくくく、口づけだなんてそ、そんなこと……」
「なあんだ。つまんないのお。赤くなっちゃってさあ? いっそのことしちゃえばいいのに……」
「しっ、しないったらっ!? もう何言い出すのっ!! やめてよう! て言うか! どうして私の分まで食べようとしてるの? あ!? もうお粥なくなっちゃってるしい!?
「うげっ!? こ、これはそのう……。あ、あまりにも美味しかったので、あたしたち2人で美味しく食べちゃいました。テヘッ」
「あたしたちって、どうせほとんどお姉ちゃんがでしょ? 嘘ついて誤魔化す人にもうご飯作ってあげないんだから!」
「えええええ!? そ、そんなあ……。それだけはああああん! ごめんなさいいいい……!!
「もーーう! ふんだっ!」

 予想外の胸ときめく展開を期待するも面白くも何ともない全くの見当外れ。欲の限りを尽くした罪深き人も()りたようなので話を戻す。
 もう……。急に変なこと言うから顔熱くなっちゃったよう……。
 胸に手を置いて高鳴った鼓動を落ち着かせる。何度か深呼吸を繰り返してからテララは気を取り直し、汚れの正体に焦点を絞る。少年の右耳をそっと起こして、もう一度その純白の髪を掻き分けてみる。

「……m……a? m……、マu……?」
「今度は何独り言ぶつぶつ言ってんのさ?」
「あ、うん。耳の後ろにね。汚れてるのかなって思ったんだけど、何だろ……字? 文字みたいなのが書いてあって……」
「ん? あんた、字読めたっけ?」
「うん。ご近所さんとのお付き合いでね。数とか物の数え方とか。それくらいしか分からないんだけど」

 テララたちのティーチ村では文字はごく限られた人間だけにしか用いられていない存在だった。木組み工や皮細工など、主に村の中でハリスの山から拾集した材料を加工し、やり取りする人間が物事の覚え書きや連絡手段に使う程度だ。
 テララは日々の生活で村人たちと接する内に、目にしたそれをわずかにうろ覚えだが覚えていたらしい。

「んーー? すごく小さくて(かす)れてて読みにくい……。所々、潰れちゃってて分からないなあ。んーーーー???? m……、a……? マ……u……。マウ……s……? マウ……ス?」
「何それ。全然聞いたことない名前だね。何か、隅っこの方で木でもかじってそうじゃない?」
「木って……。そ、そうかなあ?」
「そうだよ。それか甲高い声で、ボク、マウスダヨ。ハハッ! って笑う道化の名前みたい」
「この子、そんな風に笑ったりしないから……」
「じゃあ、却下」
「えええええ……」

 テララの名付けの才能も独特だとのことだが、その姉の想像力も人のことが言えたものじゃない。凡人では到底及ばない。人並み外れた奇抜さをひしひしと感じる。

「読み間違えたのかなあ……? 反対から読んでみよっと……。s……u……? ス……o……m? スオ……m、a? ス……オ……マ?」
「んーー。まあ確かに柔らかいんだけど、今度はちょっと甘ったるい感じ? きゃーーっか。もう一声」
「甘いってどういうこと!? 柔らかいって何っ!? て言うか、柔らかいのはいいんだ……? もう分からないよう……。ス……。スオー……マ? スオー……ス……。ソー……マ?」
「ソーマ? ふーーん。まあ、あんたにしちゃ上出来かな? それでもいいんじゃない?」
「……ソー、マ? ……ソーマ? 可笑しくない? 皆の前で笑ったりしない?」
「笑わないよ。そんな酷いこと、あたしがいつしたっていうのさ。……何よその目……。それより。その子もそれでいいって言うんなら、いいんじゃない?」

 最後まで面白くもなんともない。姉はそう言いたげだ。だけどもどういう風の吹きまわしか。おそらく努めて自制しているのか珍しく茶化そうとしてこない。さっき妹に叱られたことが効いたのか、大人しく空になった鍋底の食べかすを掻き集めて食べている。
 一方のテララは図らず候補に挙がった少年の名にまだ少し自信がもてないようだ。

「本当に可笑しくないかな? ソーマ……。ソーマくん? ソーマちゃん……。ソーマ? ソーマ……?」

 余程ピウの名付けの際はからかわれたのだろう。もう少し気楽に構えても罰は当たらないのだが。
 独り悶々(もんもん)とまじないを繰り返しているそんな少女の気苦労など知るはずもなく、銀眼の少年、今や乳粥で顔半分を白く塗りたくった無邪気すぎるその人は、次の粥をねだるようにテララに椀を突き出した。

「テララッ! ゴッハン! ゴッハン!」

 そして、つい今しがた必死に呟き積み重ねた自信を後ろ盾に、意を決していたいけな少女が臨む。

「へっ?! あっ、お代りね。い、今よそってあげるねって……。ああ……。お姉ちゃんが食べちゃったんだ……。それじゃ、これ。私の分でも平気? 少し冷めちゃってるかもしれないけど。……はい。溢さないように気を付けてね? ……ソ、……ソーマ?」
「……s、ソ……マ?」
「あっ!? やっぱり変だよねっ! ご、ごめんね! 今のなし! 今の聞かなかったことにして!? す、すぐ考え直すから……!」

 覚悟を固め発せられたその名に少年の顔からふと笑みが薄らぐ。
 やっぱりだめだった!?
 その機微にたちまち喉が詰まり、胸がしめつけられ、目の奥が少しだけ熱くなる。何故だか急に何かが怖くなって、テララは慌ててその呼び名を訂正した。
 もうあんな辛い気持ち、悲しい目をしてほしくない。そんな目で見られたくない。せっかく仲良くなれたのに。一緒に笑って、歌だって歌えたのに。こんなことでがっかりしてほしくない! それにまだ、嫌われたくない……!
 恐怖をのり越えて見つけた他愛のない、けれど掛け替えのないちっぽけな願い。そして胸内に込み上げて知った初めての気持ち。それが崩れてなくなってしまわないように、少女は両手で首飾りをぎゅっと握りしめる。
 少年に咄嗟に背を向けて振るえるテララの傍らで、新たな獲物を得たその人は勢い新たに粥を掻き込みはじめた。

「……ソ、マ。……ソー、マ。ソッ! ソッ! ソー、マッ!」
「ハハハハッ。本当に旨そうに食うねえ。よかったじゃない。その子、ソーマは気に入ったってさ?」
「……え? 本当に……? いい、の……? 嫌じゃ……ない?」
「ソーマ! ゴッハン! ソッ、マ! ソッ! ゴッマンッ!」
「えっと……、フフッ。また混ざってる……。でも、そっか……。フフッ……よかった……」

 自分の新たな名前に不満があるのかはっきりと口にはしていない。もしかしたら名前を付けてもらえたことすら気付いていないかもしれない。それでも、その名を何度も呼びながら先ほどまでと何ら変わりなく意気揚々と粥に食らい付き床を白く染めてゆく銀眼の少年。
 そんなソーマの様子を目にすれば、胸元で押し留めていたものが、温かみを帯びてゆくことだけはテララでも感じ取れたようだった。

「ひゃーーーー。新入りのことも済んだみたいだし。あたしはまた寝ようかなあ。ふああああ……。うっぷ……、ちょっと食べすぎたかも……」
「また寝るの!? もう、寝るならちゃんと寝床にしないと。床だと身体傷めちゃうよ?」
「……ここでいいのお……。ここ……が、今は…………」
「って、寝ちゃったし! もう、お姉ちゃんたらあ」

 ぽっこりお腹を膨らませた姉はそう言って大きく背伸びをすると首輪の付け根を二、三度掻き、炉を前に横ばいになって眠ってしまった。
 食べて寝てばかりだと太ると言うのに、その細い身体は反則だと誰もが思うだろう。実は最近、テララもそう理不尽に感じることがちらほらと増えてきたことは内緒だ。
 天窓からは(かす)かに淡黄に色付きはじめた空の色が漏れ込み、居間を柔らかに包み込んでいた。いつもは鬱陶(うっとう)しいその日差しも、今日は何だか少し心地良い。そんな気がする陽気さだ。

「それじゃ、後片付けしちゃおうかな。えっと、ソーマはそのまま食べてていいからね」
「ギシシッ! ゴッハン! ゴッ、マンッ! ソッハン!」
「フフフッ。混ざってる混ざってる。喉、詰まらせないようにね?」

 そうしてテララはいつもの調子を取り戻し弾みを付けて立ち上がった。
 えっとそしたら、先にお姉ちゃんに何か掛けてあげなくちゃ。
 眠って早々、その膨れた腹を出して寝相の悪さを晒す姉のために、まず自室から掛け布を持ち出してきてそれを掛けてやった。きっと跳ね除けてしまうだろうから炉の火も忘れずに消した。それから、まだ食事に夢中のソーマに微笑みながら、すっかりきれいに空になった鍋と食器を水場に片付ける。

「今日、この後どうしようかな? 洗濯物は特にないでしょ? ご飯も済んだからあ……、ご飯? ……あっ! ピウちゃんの分まだだったっ!? いけないっ!!

 多少なりとも空腹を満たされ心持ちに余裕ができたからだろう。落ち着いて今日目が覚めてから済ませたことと、普段の生活を照らし合わせてその差を指折り数えてみる。これは大変だ。食器を洗うよりも先に、もう一人の大切な家族のことを思い出した。

「ソーマッ! ピウちゃんにご飯まだあげてなかったから、私行ってくるねっ!」
「……テ、ララ?」
「あああ、顔かお! こんなに汚しちゃって。……これでよし! それじゃ行ってくるね?  食べ終わったらそのまま待ってて!」

 白い顔を更に白く染めて、もうどこまでが粥か分からなくなったソーマの顔をまるっと拭ってやる。
 これから新たに家族の増えたこの家を、少女が一人で切り盛りしていかなければならない。そのことを考えると頭が痛くなりそうなものだが、テララはそれすら心配する余裕もないまま、きっと今頃辛い思いをしているであろう愛獣の下へ足早に駆けて行った。





 戸口の階段を駆け下り爪先を支点に身体を反転させる。その勢いのまま転げ込むようにして、床下でうずくまり大きな腹の音を鳴らしている家族の下に駆け寄った。

「ピウちゃんっ! ごっ、ごめんねっ! ご飯っ! お腹、空いたよね? 今、あげる、からっ! はあ、はあ……。ほ、本当にごめんね!」

 ピウの顔横に膝を付いて精一杯の謝罪を込めてその頭を抱きしめてやった。
 いつも主張の激しい小さな耳も力無く垂れ下がってしまっている。先ほどから止まない腹の音から察するに、相当参ってしまっているようだ。
 すっかり上がってしまった息もそのままに、テララはピウの餌を仕舞った桶の蓋をどかして匙を急ぎその中へ突き立てた。

「今、たくさんあげるからね……! よいしょっ、…………ん?」

 しかし、突き立てたつもりの匙から伝わる感触はいつものそれとは異なったものだった。何と言うか、やけに軽い。その忘れもしない異様な感覚には身に覚えがある。
 ……まさか、ね?
 嫌になるほど明確な違和感を確かめるべく、恐る恐るそこに待つであろう現実を拒みながら餌桶の中を覗き込んでみる。

「――嘘!? どうしてこっちまで灰になってるの!? ……石だけは、残ってるみたいだけど……。他のは全部……どうしよう……」

 その有様に少女の献身さも灰のように音もなく崩れ果ててしまった。
 餌桶の中はピウの好物の石以外、その全てが灰となっていた。正確にはわずかに朽木は残っているようだが、ドゥ―ルスの殻も、ホルデムの籾殻(もみがら)も全部灰に成り果てて、いくら匙で掻き混ぜても乾いた音が餌桶の中に響くばかりだ。

「これじゃピウちゃんにご飯あげられないよう……。はあ、もうどうしたらいいの……」

 立て続けて起こる奇怪な出来事。
 これには流石のテララも途方にくれても仕方がない。待ち望んだ食事だと重い首を持ち上げ、少女の背中を小突くピウの鼻先が何とも重々しい。

「……ううん。こんなんじゃだめだよね。今つらいのはピウちゃんなんだし……。ようしっ! ピウちゃん! 今日はご飯待たせちゃったから、そのお詫びね!」

 ここで落ち込んでいても灰になってしまったものは元に戻らない。そんなことは腹が減って目が回る程もう存分に思い知ったこと。肩に(もた)れかかったピウの頭を撫でてから、自分の頬を叩いて気持ちを切り替える。テララは餌桶に向き直り石だけを灰の中から掬いはじめた。
 そして重みを増した匙を涎が滴るピウの下まで運び、たんまりと石を盛ってやった。
 これまでに目にしたことがない大好物の山に、ピウも大興奮だ。小さな耳を大きくはためかせ、その山に豪快にかじり付く。
 その目に見えて満足そうな様にはテララも一安心だ。それからの帰り際、ピウが食事をする隣にもう二、三杯の好物を盛ってやった。

「明日からどうしよう。餌って作るのは簡単なんだけど、量を集めるのが大変なんだよね……。今度、村の皆から分けて貰わなくちゃ。でも、どうして……」

 ピウに十分量の餌を与え終え、灰の謎が一層深まる中、テララはまた頬に手を当て唸りながら居間へと向かった。





 どれだけ考えても灰の謎を解く手掛かりに心当たりなんて当然なかった。帰り途中、村の様子を伺ってみてもいたって普通。何ら普段の様子と変わりなく、同じ謎で騒いでいる様子もない。ますます深まる謎に、テララの肩もついに撫で肩になってしまいそうだ。そんな憂うつな気分を振り払うように、テララは努めて普段通りに戸口をくぐった。

「ただい――あっ……。フフッ。もう、2人揃って行儀悪いんだからあ」

 持ち上げた視線の先では、炉を囲うように横になる影が二つに増えていた。
 ソーマは相変わらず顔の半分を粥で染め、片手を椀に突っ込んだまま、それはもう気持ちよさそうに口を大きく広げて眠っている。その様子を改めて見ると、名前は乳粥から取った方が良かったかもしれないと思えてしまう。
 姉については言うまでもない。掛け布を見事に跳ね飛ばし、腹を撫でながら仰向けになって眠っている。いびきはなかったが、どうも食べ過ぎたせいで(うな)されているらしい。
 テララは水場から濡らした布巾を持ち出して、軋む床に気を付けながらそっと白塗りの顔に近づいた。それから心地良い寝息を邪魔しないように優しくその顔を拭ってやった。

「フフフッ。本当に気持ち良さそう。あんなことがあったのに。お姉ちゃんと私と、ソーマ。ずっと前から家族だったみたい……。これからもよろしくね……?」

 お勤め後のいつも目にする光景とは少し違う。聴き慣れない、けれど、もう十二分に愛らしく思える寝息が増えた。気にかかる不可思議なこともあるけど、今はこの穏やかな気持ちを抱きしめたい。
 テララはソーマの傍らに落ちたままだった掛け布をそっとかけてやると、天窓から差し込む日の光で細く(きら)めく純白の髪を優しく撫でてやった。
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