第13話 兆し

文字数 6,196文字

「……ちょ、ちょっとお姉ちゃんっ!? その、お見定めは?? 本当にいいの!?

 完全に責務を放棄し初対面の少年に節操なく絡み付くチサキミコ。それは一見すると、いやそうでなくとも、年甲斐もなく非力な少年に迫り(さか)るただのふしだらな老女でしかない。いや彼女もまた内面や外見も少女であることは変わりないのだが、少年の柔肌を堪能する口ぶりは若さに固執した老いたそれでしかない。

「んほほほほおっーー! このっ! このほっぺたなんて、アハッ! あんたの尻なんかよりじゅっと、柔らかくて、ンフーーッ! 気持ちいいよほほほーーっ!!

 こんなあまりにも想定外な事態をいったい誰が予期できただろうか。妹のテララでさえこの衝撃展開に思考が止まり対応がまるで追い付いていない。
 銀眼の少年に至ってはその目は朦朧(もうろう)として、もう既に意識がないようにさえ思える。

「えっ!? お、お尻っ? 私のそんなに、まだ柔らか…………って!? もうっ! 可笑しなこと言わないでようっ! その子、覚えちゃうでしょっ! そうじゃなくってっ!! もおおおおおおうっ!!

 人前に出せたものじゃない姉の有様にテララの我慢もいよいよ限界とみえる。直立したまま顔を伏せて、今にも噴きこぼれそうな鍋のように肩を震わせ拳をきつく握りしめている。さて、そうこうしている内にじりじりと振い上げられたその拳。(たる)んだ姉のどこに打ち込まれてしまうのか。見物である。
 ――ッ!? 背筋がずきずき痛むこの感じ!? ……ああ、あの子の目。笑ってないや。ひょっとしてひょっとしなくても、これまずいかも……!?
 ただ、姉も一応歴とした一人の人間のようだ。その身に迫る何度目かの危険を本能で察知し、ものすんごく渋々と欲情する自我を一旦抑えてその手を止めた。しかし、その腕は依然として少年を逃すことなくがっちりと抱きしめたままだ。なんて素直で強情な人か。

「んーー……。だからさ? いいって言ってるじゃない。それとも何? 出所知れぬ不審者だからって追い出しちゃっていいの? 見たところ、言葉もろくに話せないみたいだけど?」
「そっ、それはそうなんだけどう……」
「あんた、今朝からこの子の面倒看てたんでしょ? それで何ともなかったんなら、問題ないでしょ。ちょっと出遅れて悔しいけど、あんたに懐いてるみたいだし。ちゃんと面倒看れるなら、特に拒む理由もないよ。ちょうど一部屋、空いてるんだしさ……。それに……」
「それに……?」
「こーーんなに肌がすべすべでヘヘヘッ! 柔らかいしんだしヒヒヒヒヒッ!! ムホホホホーーッ!」

 姉はそこまで言うと、せっかく取り(つくろ)った正気を早々(はやばや)と放り捨て、再度腕の中の少年(いじり)りに没頭しはじめた。
 姉妹の問答の最中、揉みしだかれ続けたしっとりもちもち柔肌の少年は最早息も絶え絶え。いやもう既に息もしていないのかもしれない。(あらが)うこともせず弱々しく姉の容赦ない愛情の中で顔を真っ青にしてうな垂れている。気の毒なことこの上ない。

「そっか……。お姉ちゃんがそう言うなら。いいんだけど……」

 しかし、これっぽっちも釈然としないが姉の言うことも確かにそうだ。改めて考えてみても、この銀眼の少年を村に迎え入れることに少しの懸念も見当たらない。と言っても小山での一件がある。だから全くないかと言えば嘘になる。ただ少なくとも、朝起きてから今の今までテララと、年端もいかない少女と二人きりだった。あの力の持ち主だ。その気になれば命を奪えたかもしれない。もしくは捕えてその身柄と引き換えに、村の蓄えを全権を我が物にできたかもしれない。そんな絶好の機会であったにもかかわらず、今こうしてむざむざと、やせ細った姉に(もてあそ)ばれているわけだ。でも、うん。やっぱり納得いかない。
 それはそれとして。

「……で、でもっ!? もうその子を離して、あーーげーーてーー!!!! 疲れちゃってるでしょーー!!

 これほどまでにだらしのない人だとは思わなかった。そう書かれた膨れた顔で、テララは意を決して助けを求めているであろう少年を救うべく、度の過ぎた欲情渦巻く姉の腕をほどきにかかる。けれども、どういうわけかその腕を押そうが引こうが非力な妹の力ではびくともしない。
 もうっ! 諦めが悪いんだからっ!! ――って!? すごい力っ!? お姉ちゃん、こんなに力あったっけ?!
 どうしたものかと途方に暮れていると、停戦を告げるが如くまたあの奇妙な音が居間に鳴り響いた。

「……おんや? 誰? 今、腹鳴ったの?」
「…………テ、ラ、ラ……。ゴ……ハ……ン…………」
「あらっ! またかわいいお腹の鳴き声だねえーー?」
「お姉ちゃんっ!!!!
「……は、い」

 怒り心頭する妹に威圧され、姉はようやくその腕から少年を解放した。
 姉の過剰な愛情を全身で受け続けた少年は、既に身を起こす力も残っていないみたいだ。落ちた布のように力無くそのまま床にへばり込んでしまった。きっと少年はこの先この人に心を許すことはないだろう。間違いない。
 恐るべし柔肌の魅惑たるや、ではなく姉の溺愛っぷりである。
 そうして、ぴくりともしない弱りきった少年に、やっと自身の大人げなさを反省したらしい。疲れた身体が冷えないようと姉はさっき階段下に散らかした羽織を拾い少年にそっとかけてやった。

「もうっ! 今みんなのご飯作ってあげるから、大人しく待っててっ! それから、今日はお姉ちゃんの好きなドゥ―ルスの実は抜きだからねっ!」
「えーー、そんなーー……」
「えーーじゃないのっ!!
「……うぐっ、はい……」

 どこか気の抜けた母親やだらしのない姉が粗相(そそう)を繰り返してきた度に自分がしっかりしなくちゃと言い聞かせ、健気で心根優しく我慢強く育ったテララ。そんな少女が猛烈に怒ることほど恐ろしいものはない。
 もう……。ちょーーっと大げさに(はしゃ)いだだけなのにい。あたしの好物抜いちゃうとか。固いなあ……。

「何か言った????
「いいえ。何も……」

 後ろ手に匙が飛んで来ないかと怯えながら、大人しく炉に(まき)を入れる。その背を丸めて小さくなった姉の姿はなんとも哀れだ。これでも一応この村の村長を任されていることをつい疑って、いや忘れてしまいそうになる。
 やっと落ち着きを取り戻したいつもの居間に、テララも握り締めた匙を下ろす。少年のためにも早く食事を用意してやらないといけない。道具の準備を終えて、テララは足早に戸口横に置いた籠の下へ食糧を取りに向かった。




 そう言えば、昨日はたくさん拾えたんだっけ? さっきお姉ちゃんに好物抜きだからって叱ったけど、少しくらい分けてもまだ十分余るくらいたくさん拾えたんだよね。あの子もお腹を空かせてるし、今日は何作ろっかな?
 テララはそんなことを考えながら、揚々と籠の中に腕を伸ばした。
 しかし、それは肉だっただろうか。ちょうどよい大きさの物に指が触れ掴み上げようと力を込めた途端、それは土塊(つちくれ)のように(もろ)く砕け散ってしまった。そう錯覚するような奇妙な感触だけが手に残っている。

「ん? 今のって……?」

 その身に覚えのない感覚にテララは小首を傾げ、籠の中を覗き込んだ。するとこれまた思いも寄らない有様に仰天の声が飛び出た。

「ええええっ!? うそっ!? 昨日、拾ってきたばかりなのに、どうして……!?
「何? どうかした? 今、この子寝付きそうなんだから、あまり大きな声出さないでよ」
「え、あ、うん……、ごめん……。えっと、それがね……。昨日拾ってきたお肉が……。ううん……、それだけじゃなくて。その、拾った物全部……、灰になってるの……」
「はいーーーーーーっ!!!?

 姉もそろって籠の中身を覗いてみる。
 そこには彩り鮮やかな食物が(ひし)めき合い、調理されるのを今か今かと待ちわびる健気な食糧たちの姿は一つも見当たらなかった。

「灰になってるだって? そんなわけ――うわっ!? ほんとだ!! ……へっ、へっぷしっ!? あんた、もしかして寝ぼけて灰を拾って来たんじゃないの?」
「お姉ちゃんじゃないんだから、そんなの拾ったりしないもん! それに、いつも小山で拾えるのはどれも新鮮で、灰なんて落ちてるの見たことないから!」
「まあ、それもそっかあ……」

 拾集した物。そのどれもが白い土塊(つちくれ)となっていた。掴めば簡単に砕けてしまい、灰となって指の間を物悲しく抜け落ちてゆく。テララが家事を担うようになって幾度となく小山で拾集を繰り返してきたが、こんなことは初めてだ。

「あーーあ……。これじゃピウの餌にもなりゃしないね……。おかしなこともあるもんだ」
「そんな悠長なあ……。もう、ご飯どうしよう……。作り置きしてたの何かあったかな……?」
「えっ!? それじゃ、飯抜きってこと!? またまたまたあ、テララさん。そんな冗談言っちゃってえ? 実はあたしたちを驚かせようと思って、取って置きのを隠してたりしちゃうんでしょ?? もう、い・け・ずう!」
「そんなのないから……」
「え、本当に?」
「本当に……」
「本当の本当に……??
「本当の本当の本当にっ……!」
「ああ、もうだめ……。流石に動きすぎて、気分悪くなってきた……」

 姉妹二人で籠の中の灰を何度すくっても、それが元の形に戻るはずもない。ただ無情に炉の隣で横たわる一人を含めて、三つの腹が虚しく泣く声が居間に木霊する。

 昼食をどうしたものか途方に暮れていると、不意に戸口の隙間から何やら人の声が漏れてきた。どうやら誰かが姉を呼んでいるらしい。

「あ! 誰か、来たみたい。お姉ちゃん呼ばれて……って、もう!」

 血の気を失い体力の限界に達したのか。籠に(もた)れたまま動かなくなってしまった姉の代わりに、テララは手の灰を(はた)いて急ぎ戸口をくぐった。

「あ、テララちゃん。こんにちは。チサキミコ様、いらっしゃるかい?」
「こ、こんにちは。えっと、姉は……、今はまだ休んでますけど。どうかされたんですか?」

 家の外。階段の下には、木組み工の奥さんが申し訳なさそうに立っていた。その腕には何やら抱えられているようだ。

「いえね。昨日チサキミコ様が(うち)の旦那を救って下さったから、そのお礼がしたくってね。これ、いつも"チサキノギ"の後はお身体の調子が良くないって聞くもんだから、食べやすいように粥を作ってみたんだけど、お口に合いそうかね?」

 何事かと伺えば、どうやら昨晩のチサキノギ。姉のチサキミコとしてのお勤めにて、夫のヘキチョウを鎮めその命を繋ぎ止めてもらえた礼がしたいとのことだった。
 そう言いつつ腕に抱えた鍋の蓋を開けると、出来て間もない乳粥が白い顔を覗かせた。スクートスの乳の柔らかくほのかな甘い香りとホルデムの実の(こうば)しい香りが鼻をくすぐり悪戯すぎるほどに食欲を誘う。心安らぐ香りどころか、今のテララにとっては血相を変えて飛び付きたくなるほど暴力的な匂いだ。有り難いことに姉の好きなドゥ―ルスの実もわずかだが添えられている。
 ホルデムの実は長い花軸(かじく)の先に実を穂状に実らせた枯草色の作物だ。乾燥した土地でも少ない水分量で育ち、ハリスの山まで出向かずともほんの少量なら近辺で見かけることができる。そのため比較的入手が容易で、口当たりも悪くない。体調がかんばしくないときには打って付けの食材だ。
 気を抜けば今にも鳴いてしまいそうな腹を、悟られぬよう自然を装いながら押さえる。力加減がとても難しい。
 ――あっ!? だ、だめっ……!? な、鳴っちゃううう……!!!?
 お近所付き合いのお裾分け。普段ならどうということないその品も、今の彼女たちにとっては水を得た大地。天からオオフリ。願ってもない褒美。喉どころか腹から手が出るほど欲しかったその品をテララは必死に努めて(うやうや)しく受け取った。どうやらまだ誤魔化せているみたいだ。

「この粥、姉も大好きなんですっ! きっとすごく喜ぶと思いますっ!」
「チサキミコ様も? フフッ、そうかい。それならよかったよ。今度来ることがあったら、もっと多めに用意してこようかね。それじゃ、よろしくお伝えしておいてね?」
「あっ!? ……その、はい。あ、ありがとうございます! 母大樹様のご加護があらんことを」
「フフフッ。母大樹様のご加護があらんことを」

 影ながらの奮闘虚しく見事に自滅した。
 ううう……。私の欲張り! 根性なし! おまぬけ! これじゃご近所さんに余計なお気遣いかけちゃう……。

「今度、お詫びしなくちゃ……。はあ……」

 耳を赤くしながら今後のご近所付き合いの方針を固めた。本当になんたる失態か。鳴り止まない腹を抑えながら気落ちしたテララは一人、居間へと戻るのであった。

「でも、このお粥。すごく美味しそう……」





 思わぬ収穫があった。お腹を空かせて待つみんなを喜ばせよう。そう気を取り直して戸口をくぐり、気持ち大きく息を吸い込む。

「ねえ、みんなこれ見――」

 けれど、居間の真ん中で姉が目配せしてそれを制した。どうも今日はついてないと言うか調子が悪い日みたいだ。テララは出端(でばな)を折られてまた少し気を落とす。
 居間では、姉が銀眼の少年を寝かし付けているところのようだった。今度はちゃんと寝息に合わせて優しくその背中をさすってあげている。やればできるのに、本当にこの人はどうして。やっぱり納得いかないが、無駄に気を張る気力も体力もないので、とりあえず今は(とが)めずに静かにしておこう。
 その少年にしてみれば、朝目覚めてから真新しいことばかりだったろう。一部よからぬ余計な出来事もあったが、一番疲れたに違いない。少年はあれほど怖がっていた姉にそっと背中を撫でられながら、膝を抱えるようにして静かに寝息を立てている。

「……ぐっすり眠ってるね」
「……村の人? 何だって?」
「あ、うん。木組み工の奥さんがね? 昨日、旦那さん助けてくれてありがとうって」
「ああ、なんだ。いつものか」
「それでね。お礼にスクートスの乳粥お裾分けしてくれたの。お姉ちゃん、体調よくなりますようにって」
「そりゃあ、ありがたいね。冷めないように温めといて、この子が起きたら頂こうか」
「うん。ドゥ―ルスの実も入ってたから、すごくおいしいと思うよ?」
「ドゥッ!? なんだってっ!?
「しーーっ! 起きちゃうでしょ?」

 炉の傍。姉に子守りをされて気持ちよさそうに寝息を立てている少年の姿は、いつかの自分も母親にしてもらっていたのとまるで同じだった。
 不意に重なる温かさに少しだけ気も楽になる。そんな二人の様子に微笑みながら、テララはそっと鍋を炉にお置いて(まき)に火を(とも)した。
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