第1話 静止するアオと少女
文字数 4,059文字
辺りはまだ薄暗く、青碧 い空の果てで日の光はまだ燻 っている。吹く風はなく、雲はその場に留まり、荒野には動く物の気配すらない。生気を感じない静けさだけがただ広がっている。そんな朝。
そのまるで静止してしまった世界のある一角に、家屋が集まった小さな村があった。大人の背丈ほどだろうか。柱で床板を支えられた高床式の住居がいくつか建ち並んでいる。その大きさは大小様々だが、どれも外壁は円をかくようにぐるりと一周し、尖がり帽子を被ったように麻布で覆われたものばかりだ。
その中の一際大きな家屋。屋根の天辺に付けられた装飾の目立つ天窓が、朝やけ前の薄明かりの中で静かに輝いていた。
その窓から射し込んだ淡い明りに促 されて、少女が大きな欠伸 と共に目を覚ました。吐いた息はまだ白く、思わず身ぶるいをする。まどろんだ目を二度三度こすると、深緑 の円い瞳が瞼 の奥からころりと顔を覗かせた。
まだ夢見ごこちな眼差しで天窓の外。切り取られた空を眺めて、その色合いから刻限を大まかに計る。
「そろそろ朝かな。……お母さん、おはよう。今日もまだ寒いね」
感覚の乏しい身体を起こして、枕元の首飾りにそう呟く声はどこか寂しげだ。
「お母さんの好きだったお花、萎 れちゃってる……。後で代わりの摘 んでくるね」
首飾りのその隣。細く黄色い花弁を広げた小さな一輪の花。
少女の母親がよく好んで活けては自前の歌を歌っていたのはいつのことだったか。ひどく草臥 れてしまったこの花のように、もうそれさえ色あせて思い出せない。
そんな形だけの思い出をそっと撫でると、首飾りを両手でそっと持ち上げ、何かを噛みしめるように"傷一つない"首にかけた。
首元に馴染んだその重さは何度付けても心地が良い。少しだけ歪 な花の形も、今ではすっかり愛おしく思えてしまうから不思議だ。
小さな首飾りを人懐こく弾ませて、少女は部屋の衣装箱から袖 や裾 がわずかに解 れた粗末な衣服を取り出し無駄のない手際で被った。服の捩 れを几帳面に直せば、次は乱れた髪の番だ。
まずは前髪を両耳にかけた後、髪留めの布をうなじから頭の天辺まで通す。右こめかみ辺りで大きな結び目を作ったら、最後に肩にかかるほどの髪を右肩辺りで一つ結びにすれば出来上がり。
光を呑み込むような黒い髪に、萌黄色の結び目がとても印象的だ。
うん、よし。
そして少女は小さく意気込んでからくるりと身を回すと、階段を静かに下りて行った。
階段を下りれば、そこには居間が広がっている。
麻布を織り重ねた絨毯 が敷かれ、木組みされた壁には同じく麻の飾り布や、料理に用いる香辛料なり干し肉が用途ごとに整然とぶら下げられている。部屋の中央には炉があり、階段からそれを挟んで向かい側が衝立 と暖簾 で仕切られた戸口となっている。
少女が下りた階段の向かい側にも同じように階段が伸びていた。その上からは何かの呻 き声が、ではなくて控えめに言って獣のそれを思わせるような寝息が聞こえてくる。
「フフッ。気持ち良さそうな寝息……。食べ物の夢でも見てるのかな? また寝床から落っこちてないといいけど」
その寝息を気遣いながら更に歩みを進め、階段下の水場へとやってきた。
脇にある水瓶の蓋をどけて水を汲 んで手と伏せておいた鍋を濯 いだら、首飾りに手を添えていつものあの一言。
「それじゃ、今日も楽しく。みんなの分まで笑顔、笑顔で。よしっ!」
そうしたらまずは手早く戸棚からミルクを取り出し、鍋と匙を抱えて目指すは炉だ。
鍋は小さな身体には少々大きいようで、どう抱え込んでも足下が見えなくなってしまうのが難点か。家畜の甲羅を流用したそれは、軽く丈夫な上に一手間加えれば匙や椀などとしても利用できる。何かと重宝する代物ではあるのだが。
ご近所さんからいろいろ仮て試しても、結局、使い慣れたものが一番だった。それでもやっぱり大きすぎか。
それでも小さな主婦はまだ薄暗い中、慣れた足取りで進み炉の脇に膝を着く。
「朝ご飯の用意、よういーーっと。ううう……。今日、本当に寒いなあ。よい、しょっと」
小さな手で鉤棒 に鍋をかけて、中にミルクを半分程度まで。次いで、ほぐした麻に石を数度打ち、器用に火種を作ったら薪を組んで炉に火を灯す。
「ふうーー。ふうーー。もうちょっとかな? ふうーー。ふううううう! うん、点いたついた」
ぱちぱちと心地良い音をたてて火の粉が鍋底を小突きはじめた。
そしたら、次は――。
火が落ち着いてから少女は不意に立ち上がる。今度はどうやら戸口の向こうに用事があるようだ。
「ううう、やっぱりちょっと寒かった。布、1枚だけでも羽織ってこればよかったかも」
より一層白くなった息で手を温めみても、階段下から吹き抜ける風に横取りされてしまって意味がない。
小柄な身体には少し急で子供への配慮に欠けたその階段を、冷やかな風にせっつかれながら足早に下りて床下へ。
家屋の真下。床を支える支柱に繋がれた一頭の家畜が、物恋しく喉を鳴らしている。目の後ろに付いた小さな耳を小刻みにはためかせながら、少女を出迎えてくれた。
その家畜。"スクートス"は村人たちにとってなくてはならない大型の生物だ。全高は大人の肩丈より少し高い程度だが、全長は太い尾を入れると大きい物で大人三人分ほどの巨体にもなる。外皮は分厚くて堅く、地を踏みしめる四肢はとても太い。三枚の大きな甲羅が段々に重なった広い背中は大変頑丈で、大量の荷物を運ぶのには最適だ。また、その巨体に似合わず、一日辺りに摂取する餌は少しで事足りるので手間もかからない。繁殖は困難ではあるが授乳期が長いこともあって、その乳は貴重な水分の補給源としても活用されている。
「ピウちゃん、おはよう。あっ!? ちょっと!? フフッ、くすぐったいよ。今ご飯あげるからね」
少女は家畜のことを親しみを込めてそう呼んでいる。
名前の由来はまたの機会にするとして、躯体 に似合わずなんとも可愛らしく呼ばれる家畜、ピウは少女をずいぶんと信頼しているみたいだ。少女のいなす手をかいくぐって尚、その頬を舐めたくて仕方ないと見える。少女曰く、これはこれでクセになるものらしいが、その少し重みのある過度な愛情表現はきっと人を選ぶものだろう。
朝の戯 れもほどほどに頭の甲羅を撫でてなんとか落ち着かせてから、少女はその脇にある水瓶から水を桶に注いでやった。それからその隣に堅い木の実の殻と朽木、石を混ぜた餌を盛る。
「はあい。ご飯ですよーー。フフッ。そんなに急いで食べちゃうと、喉詰まらせちゃうよ? もう、誰かさんに似て食いしん坊さんだなあ」
ピウは特に石が大好物だ。それを軽快な音を立て口から溢 れんばかりに頬張っている。
いや既に溢れ落おとしながら食べる様がたまらなく愛らしくて、少女はそれが大好きだった。愛獣の満足そうな食事風景はいくら見ても見飽きない。
「――あ!? いけない! そろそろ戻らなくちゃ。服は……うん。ちゃんと乾いてる。それじゃピウちゃん、私戻るね」
柱に渡した紐から干しておいた衣服を忘れず取り込んで、大層ご満悦なげっぷをするピウに別れを告げると、少女は再度居間へと戻っていった。
居間では薪が赤く弾け、鍋がわずかに煮立ちはじめている頃合いのようだった。
取り込んだ服をまだ寝息の聞こえる階段下に置いてから、足早に少女は再び水場へと向かう。いよいよ朝の仕事も大詰めだ。
今度は荒地で採れる堅果を、この村ではドゥ―ルスと呼ばれる木の実を砕いて乾燥させた香辛料と干し肉を取り出し、小さい刃物で小間切りにしたそれらを更に煮込んでいく。これまたとても洗練された手つきだ。一つも危なっかしくなく、安心して見ていられる。
「隠し味のーー、ドゥールスをーー、パラパラ。コトコトッ。おいしくなあれーー。フフフッ。もう少し足しちゃおうかな?」
鍋が煮立つ頃には部屋中を芳 しい香りが優しく覆い、天窓から差し込む光が朝の訪れを告げていた。
鼻先をくすぐる香りに少女も思わず鼻歌が交じりだす。少しだけ独特な調子の歌だが、鍋底から顔を出し弾ける泡ぶくと相まって、なかなかどうして小気味いい。
匙に煮汁を掬 い、湯気が失せても何度も何度も息を吹きかけ、もう一度吹きかけ、小さな口を更に小さく尖らせて味見をする。
「ふうーー。ふうーー。……っあちちっ!? ふうーー。ふうーー。ふうーー!」
思いの外、熱かったようだが、味には問題ないようだ。
「うん、よし。今日も美味しくできてるできてる!」
少し赤らんだ頬で小さく頷くと、未だ寝息が聞こえる階段の奥へ目線をやった。
「そろそろ、お姉ちゃん起こしてあげなくちゃ。ちゃんと起きてくれるかな? この間はいきなり泣きつかれたんだっけ? その前はいきなり怒られたし……。今日は夢、何ともないといいんだけど」
まだ冷めない口元を仰ぎながら、姉の最近の寝起き事情をふり返る。赤子ならまだしも、歳上なのだ。そうだというのに起きる前まで見ていた夢次第で、その後の少女の運命が毎度決まってしまうなんて。妹ながら苦労するったらない。
階段下に置いた服の山から碧 い衣を抱え上げて、
寝息の聞こえる部屋の様子を伺う。少しだけ今日の自分の身を案じながら、生唾を一呑みする。
果たして、本日の少女の運勢はどうなってしまうのやら。
そのまるで静止してしまった世界のある一角に、家屋が集まった小さな村があった。大人の背丈ほどだろうか。柱で床板を支えられた高床式の住居がいくつか建ち並んでいる。その大きさは大小様々だが、どれも外壁は円をかくようにぐるりと一周し、尖がり帽子を被ったように麻布で覆われたものばかりだ。
その中の一際大きな家屋。屋根の天辺に付けられた装飾の目立つ天窓が、朝やけ前の薄明かりの中で静かに輝いていた。
その窓から射し込んだ淡い明りに
まだ夢見ごこちな眼差しで天窓の外。切り取られた空を眺めて、その色合いから刻限を大まかに計る。
「そろそろ朝かな。……お母さん、おはよう。今日もまだ寒いね」
感覚の乏しい身体を起こして、枕元の首飾りにそう呟く声はどこか寂しげだ。
「お母さんの好きだったお花、
首飾りのその隣。細く黄色い花弁を広げた小さな一輪の花。
少女の母親がよく好んで活けては自前の歌を歌っていたのはいつのことだったか。ひどく
そんな形だけの思い出をそっと撫でると、首飾りを両手でそっと持ち上げ、何かを噛みしめるように"傷一つない"首にかけた。
首元に馴染んだその重さは何度付けても心地が良い。少しだけ
小さな首飾りを人懐こく弾ませて、少女は部屋の衣装箱から
まずは前髪を両耳にかけた後、髪留めの布をうなじから頭の天辺まで通す。右こめかみ辺りで大きな結び目を作ったら、最後に肩にかかるほどの髪を右肩辺りで一つ結びにすれば出来上がり。
光を呑み込むような黒い髪に、萌黄色の結び目がとても印象的だ。
うん、よし。
そして少女は小さく意気込んでからくるりと身を回すと、階段を静かに下りて行った。
階段を下りれば、そこには居間が広がっている。
麻布を織り重ねた
少女が下りた階段の向かい側にも同じように階段が伸びていた。その上からは何かの
「フフッ。気持ち良さそうな寝息……。食べ物の夢でも見てるのかな? また寝床から落っこちてないといいけど」
その寝息を気遣いながら更に歩みを進め、階段下の水場へとやってきた。
脇にある水瓶の蓋をどけて水を
「それじゃ、今日も楽しく。みんなの分まで笑顔、笑顔で。よしっ!」
そうしたらまずは手早く戸棚からミルクを取り出し、鍋と匙を抱えて目指すは炉だ。
鍋は小さな身体には少々大きいようで、どう抱え込んでも足下が見えなくなってしまうのが難点か。家畜の甲羅を流用したそれは、軽く丈夫な上に一手間加えれば匙や椀などとしても利用できる。何かと重宝する代物ではあるのだが。
ご近所さんからいろいろ仮て試しても、結局、使い慣れたものが一番だった。それでもやっぱり大きすぎか。
それでも小さな主婦はまだ薄暗い中、慣れた足取りで進み炉の脇に膝を着く。
「朝ご飯の用意、よういーーっと。ううう……。今日、本当に寒いなあ。よい、しょっと」
小さな手で
「ふうーー。ふうーー。もうちょっとかな? ふうーー。ふううううう! うん、点いたついた」
ぱちぱちと心地良い音をたてて火の粉が鍋底を小突きはじめた。
そしたら、次は――。
火が落ち着いてから少女は不意に立ち上がる。今度はどうやら戸口の向こうに用事があるようだ。
「ううう、やっぱりちょっと寒かった。布、1枚だけでも羽織ってこればよかったかも」
より一層白くなった息で手を温めみても、階段下から吹き抜ける風に横取りされてしまって意味がない。
小柄な身体には少し急で子供への配慮に欠けたその階段を、冷やかな風にせっつかれながら足早に下りて床下へ。
家屋の真下。床を支える支柱に繋がれた一頭の家畜が、物恋しく喉を鳴らしている。目の後ろに付いた小さな耳を小刻みにはためかせながら、少女を出迎えてくれた。
その家畜。"スクートス"は村人たちにとってなくてはならない大型の生物だ。全高は大人の肩丈より少し高い程度だが、全長は太い尾を入れると大きい物で大人三人分ほどの巨体にもなる。外皮は分厚くて堅く、地を踏みしめる四肢はとても太い。三枚の大きな甲羅が段々に重なった広い背中は大変頑丈で、大量の荷物を運ぶのには最適だ。また、その巨体に似合わず、一日辺りに摂取する餌は少しで事足りるので手間もかからない。繁殖は困難ではあるが授乳期が長いこともあって、その乳は貴重な水分の補給源としても活用されている。
「ピウちゃん、おはよう。あっ!? ちょっと!? フフッ、くすぐったいよ。今ご飯あげるからね」
少女は家畜のことを親しみを込めてそう呼んでいる。
名前の由来はまたの機会にするとして、
朝の
「はあい。ご飯ですよーー。フフッ。そんなに急いで食べちゃうと、喉詰まらせちゃうよ? もう、誰かさんに似て食いしん坊さんだなあ」
ピウは特に石が大好物だ。それを軽快な音を立て口から
いや既に溢れ落おとしながら食べる様がたまらなく愛らしくて、少女はそれが大好きだった。愛獣の満足そうな食事風景はいくら見ても見飽きない。
「――あ!? いけない! そろそろ戻らなくちゃ。服は……うん。ちゃんと乾いてる。それじゃピウちゃん、私戻るね」
柱に渡した紐から干しておいた衣服を忘れず取り込んで、大層ご満悦なげっぷをするピウに別れを告げると、少女は再度居間へと戻っていった。
居間では薪が赤く弾け、鍋がわずかに煮立ちはじめている頃合いのようだった。
取り込んだ服をまだ寝息の聞こえる階段下に置いてから、足早に少女は再び水場へと向かう。いよいよ朝の仕事も大詰めだ。
今度は荒地で採れる堅果を、この村ではドゥ―ルスと呼ばれる木の実を砕いて乾燥させた香辛料と干し肉を取り出し、小さい刃物で小間切りにしたそれらを更に煮込んでいく。これまたとても洗練された手つきだ。一つも危なっかしくなく、安心して見ていられる。
「隠し味のーー、ドゥールスをーー、パラパラ。コトコトッ。おいしくなあれーー。フフフッ。もう少し足しちゃおうかな?」
鍋が煮立つ頃には部屋中を
鼻先をくすぐる香りに少女も思わず鼻歌が交じりだす。少しだけ独特な調子の歌だが、鍋底から顔を出し弾ける泡ぶくと相まって、なかなかどうして小気味いい。
匙に煮汁を
「ふうーー。ふうーー。……っあちちっ!? ふうーー。ふうーー。ふうーー!」
思いの外、熱かったようだが、味には問題ないようだ。
「うん、よし。今日も美味しくできてるできてる!」
少し赤らんだ頬で小さく頷くと、未だ寝息が聞こえる階段の奥へ目線をやった。
「そろそろ、お姉ちゃん起こしてあげなくちゃ。ちゃんと起きてくれるかな? この間はいきなり泣きつかれたんだっけ? その前はいきなり怒られたし……。今日は夢、何ともないといいんだけど」
まだ冷めない口元を仰ぎながら、姉の最近の寝起き事情をふり返る。赤子ならまだしも、歳上なのだ。そうだというのに起きる前まで見ていた夢次第で、その後の少女の運命が毎度決まってしまうなんて。妹ながら苦労するったらない。
階段下に置いた服の山から
寝息の聞こえる部屋の様子を伺う。少しだけ今日の自分の身を案じながら、生唾を一呑みする。
果たして、本日の少女の運勢はどうなってしまうのやら。