03:こういう日も悪くない ※アクセス権限(1)解除

文字数 3,402文字

 柄のないカーテンの隙間から日の光が差し込み、家具の少ない一室を温める。木枠のディスプレイに映された抽象的な水彩画が朝日をはね返し、シングルベッドで横になる男の起床を促している。

「…………う、……ん? ……ああ、朝か……」

 容赦ない日光を手で遮りながら、枕脇のデバイスを見ると、AM,6:55。起床予定時刻よりもわずかに早い。と言ってもほぼ予定通りか。今日も順調に――いや、どうもまだ昨日の頭痛が少し残っているみたいだ。Ouch...、顔を洗うとしよう……。
 ベッドに一度腰掛け、「よし」と一声。意識の覚醒を今一度確かめてから立ち上がる。ルームメイトに欠員のある少し広々とした部屋を進みながら、改めて持ってきたデバイスを確認。数少ない憶えた操作をたよりにスケジューラーを起動してみと、いくつかの太字(ボールド)が目に付いた。

「……今日は金曜日。ほう、休日なのか」

 なぜ休日であるのかは詳細に書かれてはいないが、取りあえず午前のタスクだけは記されている。
 1)7:00~7:05 起床後ルーティーン
 2)7:05~7:35 学会のトピックス確認、及び朝食
 3)7:35~12:00 自己学習
  ※新規ゲノムの精製方法。第一段階:選択的、且つ定量的実験プロトコルの検討。

 歯を磨き顔を洗い終え、首や肩を回し軽いストレッチをこなしながら、しっかりと眠気を覚ます。AM,6:59。よし、順調だ。少し余裕をもってトピックスに目を通せるだろう。だが、こういう煩わしいノイズのある日には、まずはあれ(・・)でリフレッシュするしかない……。
 響く痛みをなだめながらキッチンへと向かい、カウンターの前へ。天板横のモニターに触れ、コーヒーメーカーを呼びだし起動(activate)。板面からせり出してくるそれと連動するように戸棚を開く。

「ええと、カップは洗い終えられているようだな。よし。これを飲まないと始まらな――」
"Beeeep"

 What? エラー音が思考を遮った。おかしい。そんなはずはない。まだ数個のカプセルが残っていたと記憶している。再起動(reboot)を試してみてもだめだ。カートリッジを開け目視を試みるも結果は変わらず。まあ、いいさ。
 素直に諦めて膝を折り、標的をカウンター下のストックへと向けた。
 僕は彼とは違う。後先ろくに検討もせずに、その場しのぎに軽率な選択をしたりはしない。あらゆるケースを想定し、予備は十分に確保しておくことが僕の心情だ。そうすることで残されたストックが展望記憶となり、資材が枯渇する前に滞りなく補充できる。

「だから、こんな頭痛も直ぐクリアにできるというわけ――Oh my gosh!?

 意気揚々と開いた扉の中は見事に空だった。
 思わず頭を突っ込み中を見渡す。なんだ、あるじゃないか。扉の死角に隠れていたストックの大箱を引き寄せるも。妙だ……。どうもネガティブな結果しか浮かばない。その中に手をさし込んでみるも、これまた見事に空を切った。蓋を開け、再び目視を試みるも結果は……変わらないらしい。
 ああ、そうか……。毎度記憶には留めておいたはずだが、研究にコラボにと、最近彼にいつになく振り回されたせいで、補充するタイミングを失っていたのか。"誰とは違うだって?" などと挑発的な声が聞こえてきそうだ。しかし、まいったな……。
 改めて「よし」と大きく溜め息を付き、痛む頭を抱えながら立ち上がる。AM,7:02。少し考える猶予はあるようだ。目的の一杯を手に入れるには、さてどうするのがベストか。腕を組み額に指を当て、調子を伺いながらゆっくりと考えてみる。
 しばらく様子をみれば痛みは治まるだろうか? いやだめだ。それこそ、この状態のままでは知識(ナレッジ)の定着にノイズが入ってしまう。誤記憶や忘却によって、後で何度も見返す羽目になっては非効率的だ。
 今日は金曜日。そして休日。寮のダイニングは解放されているだろうが、それもだめだ。コーヒーは置いてあるものの、質の良いただの嗜好品。ルパートの研究室(ラボ)にあったものよりも遥かに値の張りそうな雑味も異臭もしない上物なのだろうが、それではカフェインが足りない。テイクアウトできたとしてもその都度、足を運ぶのでは身が入らないばかりか学習時間が削られてしまう。却下だ。
 だとすれば、残すはやはり買い出し。休日であれば付近の店舗は期待できない。生協(co‐op)なら望みはあるか? 現在、AM,7:04。片道、約5分。往復10分。店内移動や会計などの誤差を鑑みて15分。余分に見積もっても約20分といったところか。……うむ。
 例えば20分のロスタイムがあったと仮定してみよう。ともすれば今日のスケジュールがずれ込み、午前の自己学習の時間を削らざるを得ないわけだ。だとしても、ロス分を1日あたり5分~10分に分割し、睡眠前学習に充てれば十分リカバリー可能か。……ふむ。然して支障はなさそうだな。まあ、いい機会だ。ついでに日用品でも買い足すとしよう。ポイントがそろそろ貯まる頃合いだったはずだ。であるなら、うむ。採用。
 現実的なリカバリープランを検討できたところで予定変更。そうと決まれば直ぐさま行動あるのみ。空箱を潰し、ダストシュートへ放り込み、そのまま流れるようにフロントドアへ。着慣れた白衣ではなく、ポールラックに掛けっぱなしだったジャケットを手に部屋を出た。


 §§§


 木造りの凝った装飾に飾られたピンクレッドの絨毯を進む。足早につきあたりの角を曲がると、エントランスへと続く階段下から何やら歌声が聞こえてくるではないか。聞き覚えのない音色だ。意図せず耳を傾けてしまう。
 幼少のころから勉学以外に時間を費やしてはこなかった。ただそれでも、これは何と言うのものなのだろうか……。「伸びやか」で、それでいて……そう、「力強い」。そしてこれは……。ふむ。うまく表現しがたい何かを感じる。そんな歌だ。
 そうして聞き入っている内に階段を下りきったところでその謎も解けた。

「|Lift Every Voice and Sing《すべての声と歌を高らかに》……。ああ、なるほど。今日は解放の日(ジューンティーンス・デイ)なのか」

 合衆国にてある戦後、奴隷身分にあった者たちを同制度を公式に非合法化することで、その者の人権と自由を認めた日だったと記憶している。
 そうか。だからどことなく辛さを感じる歌詞でありながら、わずかに開放的な気分にしてくれるのか。ふむ、覚えておこう。
 そうしてエントランスに響くポジティブな斉唱を背で堪能しつつ、これまた凝った木造りのレリーフが印象的なノブを捻った。


 §§§


 重たい扉の隙間から吹き込む快晴の青い空。

「晴れているな。雨の心配もなさそうだ。これなら――っと、風が吹くとまだ寒いな」

 湿気はないようだが、時折り吹く風はまだ早朝ということもあってか、この部屋着では少し耐えがたい。といっても一度部屋に戻るのも時間が惜しいわけで。
 しぶしぶ持ってきたジャケットを手早く羽織り襟を立てると、何やらポケットの中が騒がしいのが分かった。What? 中をあさると唸り続けているデバイスが手に触れた。人の都合もお構いなしに頻りにバイブレーションを繰り返すそれを、溜め息混じりに取り出しスリープモードを解いてみる。

「ああ……、やはりか……」

 せっかくの休日。清々しさをキャプチャーしたような朝だというのに。なんだ、この尋常じゃない履歴の数は……。どうも、先ほどから1分置きに着信がきていたようだ。頼むから、これ以上僕を苦しめないでくれないか……。

「今日は解放の日なんだ。そんな日に君に(しいた)げられる、あいや。付き合うほど、僕もモノ好きじゃない。悪いが、この休日は自由にさせてもらうぞ、相棒」

 サブディスプレイに表示された煩わしい好意だか奴隷勧告だか分からない無粋な塊を、一息にスワイプして一括削除。即断だ。躊躇(ちゅうちょ)する余地などあるはずがない。
 それからデバイス。正しくはWebLess(ウェブレス)を手首にはめ、黄色く点滅した"CAUTION"のバイタルサインをキャンセルした後、ジャケットを大きくひるがえしながら寮のフロントステップを蹴った。
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