第9話 その目に映るもの

文字数 4,187文字

「アハハハハッ……、ふぅ……はい。ふざけるのはこれくらいにして、早く外行って身体きれいにしよっか。でもちょっとその前に、邪魔な物を片付けてと……」

 打った尻の痛みも忘れてしばらく笑いこけた二人。
 外への戸口から姉の部屋にかけてほったらかしだった諸々(もろもろ)はとりあえず全部どかした。
 よしっと。これでもうつまづかないはず。また痛い目みるのは嫌だからね。いたたた……。
 脱ぎ散らかされた衣服はその階段下へ畳んで、気持ち新たにテララはそのヒトの手を取った。

「お待たせ。それじゃ行こっか。ほら、起きて?」
「テラ、テ?」
「んーー。何か混ざってるけど、そうそう。外まであとちょっとだからがんばろ? それじゃ、また私と同じ足出してみて? はい、よいしょっ。よいしょっと」

 すっかり手を繋ぐのも慣れ、息も合った調子でわりとすぐに戸口を潜り外へ出ることができた。残すは階段を下りて床下の水瓶(みずがめ)までとなるが、うむ。これはどうやら一筋縄ではいかなそうな気配がぷんぷんする。

 ようやっと辿り着いた外はすっかり熱く日照でっていた。まだ鬱陶(うっとう)しい熱気はなく耐えられるほどだが、肌をじりじりと焼く乾いた暑さが疎ましい。

「わあ……。どんどん熱くなってきたねえ……。喉すぐ乾いちゃって疲れちゃうかもしれないけど。水浴び、すごく気持ちいいと思うよ? だから早く下り――」

 屋根上の飾り窓から日の光が鋭く目に刺さる。日ごとに暑さを増し本格的な乾季の訪れに滅入ってなるものかと、そのヒトと自分を励ましてみる。懸命にお持て成しを果たそうと健気に奮闘してみせるテララであったが、やはりそう甘くはなかった。
 そこは木造りの壁などなく見渡す限り続く外の世界。先ほどの居間などとまるで比べ物にならない広大な景色。雲一つない真っ青な空。どこまでも続くひび割れた大地。いくつもの家屋が建ち並び、いろんな姿形の人間がおのおのの日課に精を出して動いている。耳に触れる音も様々だ。更地を転がる砂利や風になびく枯れた草木の擦れる音。村人たちの聞き慣れない声に、スクートスの鳴き声。日に当てられた屋根の麻や木々の乾いた匂いが土の匂いに混ざり鼻を通り抜ける。
 月明かりの下、混乱のした記憶の中に残るものとはまるで格別の景色が銀の瞳に飛び込み、その全てが煌びやかに映っている。さあ、大変だ。
 例の如く銀眼のそのヒトは再び興味津津。大も大興奮のご様子。
 そのはしゃぎようには手を繋いだテララの方が逆に揺さぶられて足下が覚束(おぼつか)なくなる。これならまだスクートスの綱を引く方が何十倍も楽というものだ。

「テララッ! ラッララッ!! テッ! テッ! テッ……!! ギギッ! テラッ! テッテッ!!!」
「う、うん。外に出たね。あわわっ!? ほ、ほらちょっと落ち着い、てよ。前、階段ある、から。キャッ!? ね、ちょっと……!! あっ、危ないよっ……!!

 テララの直ぐ後ろには少々急な階段が待ち構えるている。それは大人でさえ背丈ほどの高さがなる。少女のようにまだ子供なら、その高さはあまりにも危険すぎる。ただでさえそのヒトは手を引かれ歩くのがやっとだというのに、さらに注意散漫、気分絶頂、足元お留守な状態は非常に危うい。折角傷が治っても、落ちてしまったらまた二人揃ってクス爺の厄介になることになる。

『くれぐれも安静にするんじゃぞ。無理は絶対にいかん。絶対にじゃ。分かったの?』

 余裕がなくなった隙を突くように、曇り歪んだ老眼の奥でおっかない目をした老医の顔が脳裏を(よぎ)る。
 だめだめっ! そんなの絶対にだめっ!! ど、どうにかしなくちゃっ……!? でも、ど、どうやってっ……!?
 階段を下りてしまえば目的の水瓶まで目と鼻の先だというのにもどかしいったらない。飛び跳ねる好奇心の塊に揺らされながら、テララは必死に二人無事に下りる方法はないかと考えて考え考える。

「んーーと……! んーーと……! んーー、あっ……!?

 そして一つの名案を思い付いた。正直それに事態を収められる確証はない。けどそれに代わる代案も猶予も今はない。
 じりじりと階段が押し迫る。
 テララは興奮するそのヒトを支え、もとい抑えながら意を決して瞳を閉じ、胸一杯に空気を吸い込んで静かに口を開いた。

「Etiam si …… vestri 'solum …… flores …… quasi in deserto……」

 誰かを気遣う身の内に沁みる柔らかさと違う。驚き危ぶみ張り上げた鋭さとも違う。
 今、少女の口から流れるその音は、好奇心に(もてあそ)ばれたそのヒトの耳を通って鼓膜をくすぐり、三半規管をそっと撫でた。それは一途にその関心を惹き付ける音色だった。

「――ッ!? …………テ、ラ……ラ……?」
「……今のはね。私がまだ赤ちゃんだった頃に、お母さんがよく歌ってくれた歌なんだ……。全部は覚えていないんだけど、私……すごく好きでね。ちゃんと、歌えてたかな?」

 懐かしい記憶。大好きだけど、できるならまだ思い出したくない自分の弱さ。
 そういって静かに(うつむ)く少女の手は、落ち着きを取り戻した銀眼の中でほんの少しだけ震えていた。覚えたてのその名を何度か口にしてみても、いつものように振り向いてはくれなかった。
 また少しだけその様子を銀眼のそのヒトは見詰めたあと、穏やかにも取れる声で何やら訴えかけだした。

「……テ、ララ……、υ……ウτ、υ、ウ、τ……υ、タ。……ウタ……」
「――っ!? ああーー! もうだめだね、私! もうずいぶん前で、ちゃんとしなくちゃって約束したのに。いけない、いけない! ふうっ! ……歌。気に入ってくれた?」
「テラ、ラッ! ウ、ウτ……。υタ……、ウ、タッ……!」
「フフッ、もう一度聴きたい? 可笑しくなかった? お姉ちゃんにはたまに音痴だって笑われちゃうんだけど……。うん。えっと、それじゃちょっと恥ずかしいけど、ちゃんと聴いててね? すーーはーー。すうーーはあーー。それじゃ、もう一度……」

 昨日今日会ったばかりの子に慰められちゃった……。私、お姉ちゃんにはなれそうにないな……。
 後ろめたさなんて知らない銀の瞳が真直ぐ少女を見詰めている。
 頬を少し赤くして気恥ずかしそうな深緑の目。その隠し場所を探すようにテララはまた(まぶた)を閉じた。それからゆっくりと静かに深く息を整え、母から継いだ思い出を愛おしむように歌いはじめた。
 やはりその音色には目に見えるような興奮はしないようだ。ただそれでも、銀の瞳を何より一番輝かせて、潤んだ声に聞き入っている。

 そうして二人は一段、一段階段を下りた。地面に足が着いたころには頬が上がる歌い心地で、それから床下の水瓶まではすぐだった。
 床板を支える支柱を一つ挟んで奥にはスクートスのピウがまだ寝息を立てている。
 銀の関心が未知の物体。丸い甲羅の頭に愛らしく揺れる小さな耳を持つ、愛情表現がちょっと重たい愛獣ピウに万が一()れて踊り出されてしまってはたまらない。それはまた今度の機会にとっておくとして。テララは人知れず、それでいて速やかにその背中がピウに向くように誘導してようやく目的地に到着。本当に気が抜けない。

「ふう! 到着うーー! やっと着いたね。ああっ! 後ろはまだ向いちゃだめ。それはまた今度のお楽しみ。そのままだよ? そのまま。いい? そのままだからね? ……よし。それじゃ、身体洗おっか」

 そう言って手を放すと、周囲の柱に巻き付けられた縄を四方に渡して囲いを作り、干してあった布をかけて目隠しを施した。これで他所の目を気にせず水浴びができる。

「ちょうど干しててよかった。これでよしっと。そしたら次はこの中に入って座ろっか。よい、しょっと。歩き疲れたでしょ?」

 次いで柱に立て掛けられた水桶をひっくり返し、その中へそのヒトを座らせた。
 折角の景観も風に揺れる布に遮られ、銀の瞳はどこか落ち付かなさそうだ。おずおずと手を引かれされるままにちんまりと桶の中に膝を折って座り込んでいる。

「あーー、そっか。えっと、その前に服、脱ごっか。そのままだと服まで濡れちゃうし。寒くはないと思うから、脱げそう?」

 相手の体調、機嫌を伺うように小首を傾げて反応を待つ。
 しかし、例の如く籠の中の銀眼は頭上の床板を興味深そうに眺めるばかりでまるで話を聞いていない。おっと、上を仰ぎ過ぎて桶の中でこけた。

「えっと……フフッ。それじゃ、両手上げてくれる? こんな風に。手をね、真直ぐ上に伸ばすの。服、脱がせてあげるから。分かる? こうだよ? こう。ばんざーーいってするの。できる?」

 気を落とすように鼻で笑いながらも、床板に夢中のそのヒトの視線を覆うように屈んで両手を上げるように優しく促す。
 またしても不可解な動作を繰り返す少女の姿がその銀眼に映る。もうそんな姿も見慣れたのだろう。待っていましたとでも言わんばかりに、ぎこちなく歯を覗かせながら見よう見真似に両の手を持ち上げてくれた。

「うん、いい子。いい子。そのままじっとね? 今、脱がせてあげるからねえ……」

 いつまた好奇心が他へ移ってしまうか分からない。幸いにもそのヒトが身に着けていた衣服は、上下が一枚布で作られた簡素なものだった。
 テララは透かさずそして特に気懸りもなく、無邪気に両手を上げたヒトの服。その破けた(すそ)を掴み一気にまくり上げた。そうしたかった。

「――キャッ!?

 そうしたかったのだが、目の当りにした予想外すぎる現実の"形"に、いたいけな少女の幼心が悲鳴を上げた。上方に向けた手の力を猛反転させて"それを隠した"のだった。

「えっ……?! 嘘でしょっ……?! えええっ!? だだだだっ!! だ、だって!? あなた、髪汚れてるけど長いし……。その、背だって私より……え? ええええっ!? だって……え? うそっ!? えっ!? うそおおおおおおっ!!!?
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