第3話 暗室作業のABC

文字数 2,200文字

 ずっと入院中だった祖父はALSから肺炎を拗らせてクリスマスの夜に亡くなった。
 お通夜当日に帰国した父は、よほど忙しいのか告別式翌日にはアルジェリアに帰ってしまったが、旅立つ直前に祖父の形見のカメラをぼくに手渡してくれた。ニコンFMというそのカメラは、スペースシャトルで使われたというプロ用のF4に比べるとずっとコンパクトで、重さも半分くらいしかない。そのうえ、渡部さんが使っているF2と同じ機械式シャッターだった。電子機能やオートフォーカスは使わずにマニュアルで露出とピントを決めて撮影する——という昔ながらのカメラマンの技を渡部さんから学んだぼくは、自分が生まれるより二十年も前に作られたそのカメラをすごく気に入って、望遠ズームのレンズを取り付けたまま、ことある毎にリュックに収めて出かけるようになった。
 ところが、猫の写真は個展でも開けそうな勢いで増えていく一方で、肝心なUFOはいつまでたっても現れなかった。


 中学生最後の春、高校進学が決まったぼくは一年ぶりに渡部さんを訪ねた。その日もツボミとハナがぼくを出迎えてくれたが、ツボミは名前とのコントラストに笑ってしまうほどお腹の周りに貫禄が付き、一年前はまだ子猫の面影が少し残っていたハナはすっかり大人になっていた。
 ぼくはキャビネサイズのプリントを収めたアルバムを渡部さんに見せた。
「受験前の一週間以外はほとんど毎日カメラを持ち歩いてるんですけど、UFOにはまったく遭遇できなくて……。撮った写真は猫ばかりなんです」
「みんな良い顔してるなぁ。宙くん、なかなか上手じゃないか」
「でも、肝心なUFOが……」
「当たらずといえども遠からずだよ」と言いながら渡部さんは煙草に火を着けた。「未成年に勧めたら親御さんから怒られちゃうかもしれないけど……」
 煙草を勧められるのかと思ってぼくはどきどきしたけど、単なる取り越し苦労だった。
「満月の夜、深夜に猫が集まっているところに行ってみてごらん」
「猫の集会ですか?」
「そうそう、公園とかで見かけたことあるだろう?」
「見たことはないですけど、声は聞いたことあります」
 渡部さんの写真アルバムには月明かりの下、高感度フィルムで撮影したという粒子の荒れたUFOの写真が何枚かあった。
「満月の夜に猫が集会をしていたら、たいていその上空にはUFOがいる。かなりの確率で遭遇できるよ」
 煙草を口に咥えたまま渡部さんが更にアルバムのページを捲ると、そこには日中に撮影されたUFOの写真が並んでいた。
「昼間でも、猫が急に目を大きく見開いて空を見上げたら、その視線の先にUFOが浮かんでいることがあるんだ。この写真はほとんどそんなときに撮ったものだよ。逆に猫たちが目を細めてのんびりと微睡んでいるときはUFOはいないと思って間違いない」
 言い終わると、渡部さんは煙草の煙を深く吸い込んだ。ぼくはまた『輪っか』を見てみたくなったが、リクエストするのは子供じみていると思って口に出さなかった。渡部さんは吸った量のほんの一割ほどの煙を吐き出したが、外に出ない煙はいったいどこへ行ってしまうんだろう?
 渡部さんは、猫のような顔でにやりと笑った。


 高校進学と同時にぼくは写真部に入部した。部室の奥にあった暗室が目的だったけれど、それは殆ど物置になっていた。
 祖父の形見のニコンFMと中古で手に入れたFM2、二台のクラシックカメラを携帯してデジタル全盛の時代に銀塩写真を撮り続けるぼくは写真部ではかなりの変わり者だった。ところが、顧問を説得して何年も使われていなかった暗室を一人で整備し、フィルム現像やプリントの引き伸ばしを始めると、それまで冷笑していた部員たちも少し興味を持ちはじめた。

 一年の夏休みを前に、学年で一二を争う優等生でかつ学内ベスト5の美人と言われていたクラスメイトの羽山成美さんから、暗室作業を教えて欲しいと頼まれた。彼女は曾お祖父さんの形見というドイツ製の名器ライカM3を持っていて、いつか銀塩写真をちゃんとやってみたいと思っていたそうだ。ぼくも暗室作業は始めたばかりだったから、現像や引き伸ばしの基本的な作業から、フィルムの感度を上げる増感現像や、部分的に光を遮断する覆い焼きなどの高度なプリント技術まで、一緒に勉強するつもりで週に二回のワークショップを始めることにした。男女二人で暗室に籠もるのはまずいということで、他の部員も加わるよう顧問から指導を受けた。すると、最初は羽山さん目当てで参加した部員たちも、ミイラ取りがミイラになるように次々と銀塩写真の虜になっていった。羽山さんが暗室作業のABCをイラストと写真入りの分かり易いマニュアルに仕上げてくれたお陰で、今では部員の大半がアナログ・デジタルの両刀使いになっている。

 写真部は秋の文化祭を区切りに、二年から一年に部長を交代する。立候補者がいない場合は他薦で候補者を立てて選挙になるが、ぼくが一年のその年も例年通り立候補はいなかった。最終的に羽山さんとぼくの二人に絞られ、決選投票でも同じ得票数になった。そういう場合は、名誉票と言われる三年生の元部長の一票で部長が決まる。ぼくは間違いなく羽山さんで決まりと思っていたら、受験で忙しくなることを理由に先に辞退されてしまった。結局ぼくが部長に選ばれ、羽山さんは、他に誰もいないのなら……と渋々副部長を引き受けた。

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