第19話 予算ゼロ
文字数 2,566文字
もし八万四千の善念が集まってしまったらミウは旅立ってしまう。そう考えたぼくは慌てて異論を唱えた。
「そんなに焦らなくてもいいんじゃない? 一組一分くらいかけてゆっくり善念を込めてもらっても良いと思うんだ。それでも一日六時間で千人以上になるし」
「一分は長いわ。五秒か十秒で充分」と母は言う。「時間が長くなるほど雑念も増えるものなのよ」
「一日千人じゃ三ヶ月近くかかるから却下」と姉もぼくの提案を一刀両断に切り捨てた。
「でもなんで三人一組なの? 一人ずつでも良いと思うけど。どっちみちミウは時間を遡るわけだから、善念を集めるのに一年くらい掛けても良いと思うんだ」と言ってぼくは姉の顔を見た。「さっき長崎に原爆投下された日のことを言ってたけど、来年の原爆記念日までなら一年以上あるじゃない?」
「なに悠長なこと言ってるの?」と姉はぼくを冷笑した。「宙はミウと別れたくないんでしょ?」
図星だった。
「い……いや。そういうわけじゃないけど、あと二週間じゃ無理だと思うんだ。いくら一流のイベントプランナーでも」
「私の母は、無理とか不可能って言葉を聞くと俄然燃える性格なの」と成美は笑った。
姉は諭すようにぼくに説明した。
「人が何か行動を起こすには動機や目的、目標が必要なの。原爆の日をゴールにして平和を祈る……多くの人の共感を得るためには今がベストじゃない?」
見渡すとみんな姉の言葉に相槌を打っていた。
母はミウを二階の書斎に連れて行った。アルジェリアの大学で教鞭と取っている父はもう長いこと家に帰っていない。その父の書斎に来客用の折り畳みベッドを用意して、今はミウの仮の部屋にしている。
母が応接に戻って来た。
「よっぽど疲れてたのね。ベッドに横になったらすぐに眠ってしまったから、しばらく休ませてあげましょう」
「あれだけの情報量、受け取るだけでも大変だったけど、送る側のミウにはかなりの負担だったんでしょうね」
成美が言い終わると同時にスマホがメールの着信を告げた。
「母から返事がありました」
「何って?」と姉が反応した。
「『面白そうね』って。さっき概要をまとめたからメールで送信しておきますね」
「いつのまにまとめてたの?」と母は感心する。「さすが未来のドクターね」
「私も博士課程が終わったらドクターだから」と姉は漏らしたが、自分で恥ずかしくなったのか話題を戻した。「月よりの使者と一緒に人類を救済するイベントなんて、きっとお母さんもワクワクするんじゃない?」
「ごめんなさい。現実主義の母は信じないと思うので、メールではそのことには触れずにイベントの概要だけ」
「お母様のお名前、羽山ユカリさんだったわね? 前にテレビで見たことがあるわ」と母は言う。
「へぇ? 有名な人なんだ」
姉が身を乗り出すと、成美はバッグから母親の名刺を取り出した。
「ユカリは縁やゆかりの縁の字を書くんです。でもミドリって読まれてしまうことが多いから、独立したときに今のカタカナ表記にしたらしいです」
「前は会社にいたのよね?」と母が尋ねた。「広告代理店だったかしら」
「はい。結婚と同時に退職したんですけど、私が幼稚園の頃に両親は離婚して、母は元の職場に再就職しました。でも、スポンサーや政治家に忖度する仕事に嫌気がさして独立したんです」
「なるほど」
成美のお母さんは、北海道、沖縄、九州と出張続きでしばらく休暇がなかったという。そんなユカリさんが羽田からまっすぐこちらに向かっていると聞いて、ぼくたちは夕食の支度を整えることにした。
ぼくがオーブンでローストチキンを焼いている間に、母はパスタを茹で、姉はサラダを用意する。成美は近所の酒屋にワインを買い出しに行った。
そうして羽山ユカリさんが初めて我が家にやってきた。
初対面の挨拶を一通り終えた後、ミウを除くぼくたち五人はダイニングテーブルを囲んで席に着いた。
「ミウはどうする?」と姉が尋ね、二階に呼びに行った母は、結局一人で降りてきた。
「まだ眠っていたから、もう少し休ませてあげましょう」
乾杯の準備をしている間、ユカリさんはぼくの前に置かれたワインボトルをじっと見ていた。
「それはノンアルコール?」
「はい」と素直に返事をすると、姉はぼくを揶揄 うように言う。
「弟は二十歳になったのにアルコールが全くダメなんですよ」
ユカリさんは笑いながら言った。
「私もそれにするわ。このあと大事な仕事の話になりそうだから」
母もユカリさんを真似てノンアルコールにしたが、成美と海はグラスになみなみとシャンパンを注いだ。テーブルに置いたワインクーラーにはまだ二本のボトルが残っているが、二人の酒豪はそれも飲み干すつもりらしい。
「出張お疲れさまでした」と労いの声を掛けた母がそのまま乾杯の音頭を取った。「新しい出逢いと、出発と、そしてミッションの成功を願って、乾杯!」
夕餉も一段落した頃に、ユカリさんが本題を切り出した。
「最終の会場は広島と長崎として、スタートは東京で良いのかしら?」
「はい」とぼくは応えた。
「屋外だと天候が心配ね。屋内の大規模施設だと、東京ドームや国立競技場、味の素スタジアムなら五万人以上OK。何日かに分けて一日一万人程度なら、武道館、国技館、代々木の第一体育館、有明コロシアムとか会場の候補も増えるけど……」
どうやら成美のお母さんは、ぼくたちが考えていたより遥かに大きなイベントを想定しているらしかった。今はどこにも予算がないことや、無償で働いてくれる多くの協力者が必要なことを、やる気満々のイベントプランナーにどうやって伝えたら良いんだろう?
「成美のメールでイベントの大筋はわかったけど、肝心なクライアントやスポンサー、それに予算のことが何も書かれてなかった。かなり大がかりなイベントになると思うけど、スポンサーはいったい誰なの?」
沈黙の時が流れた。
どう説明しようかと考えていたら、アルコールの勢いを借りたのか成美が口を開いた。
「スポンサーはいない」
「どういうこと?」とユカリさんは真顔になった。「それじゃ予算は?」
「予算は、今のところゼロ」
「スポンサー無し。予算ゼロ。予算ゼロ……予算ゼロ?」と娘の発した言葉をオウム返しのように繰り返しながら、ユカリさんは呟いた。「エイプリルフールでもないのに何かの冗談?」
「そんなに焦らなくてもいいんじゃない? 一組一分くらいかけてゆっくり善念を込めてもらっても良いと思うんだ。それでも一日六時間で千人以上になるし」
「一分は長いわ。五秒か十秒で充分」と母は言う。「時間が長くなるほど雑念も増えるものなのよ」
「一日千人じゃ三ヶ月近くかかるから却下」と姉もぼくの提案を一刀両断に切り捨てた。
「でもなんで三人一組なの? 一人ずつでも良いと思うけど。どっちみちミウは時間を遡るわけだから、善念を集めるのに一年くらい掛けても良いと思うんだ」と言ってぼくは姉の顔を見た。「さっき長崎に原爆投下された日のことを言ってたけど、来年の原爆記念日までなら一年以上あるじゃない?」
「なに悠長なこと言ってるの?」と姉はぼくを冷笑した。「宙はミウと別れたくないんでしょ?」
図星だった。
「い……いや。そういうわけじゃないけど、あと二週間じゃ無理だと思うんだ。いくら一流のイベントプランナーでも」
「私の母は、無理とか不可能って言葉を聞くと俄然燃える性格なの」と成美は笑った。
姉は諭すようにぼくに説明した。
「人が何か行動を起こすには動機や目的、目標が必要なの。原爆の日をゴールにして平和を祈る……多くの人の共感を得るためには今がベストじゃない?」
見渡すとみんな姉の言葉に相槌を打っていた。
母はミウを二階の書斎に連れて行った。アルジェリアの大学で教鞭と取っている父はもう長いこと家に帰っていない。その父の書斎に来客用の折り畳みベッドを用意して、今はミウの仮の部屋にしている。
母が応接に戻って来た。
「よっぽど疲れてたのね。ベッドに横になったらすぐに眠ってしまったから、しばらく休ませてあげましょう」
「あれだけの情報量、受け取るだけでも大変だったけど、送る側のミウにはかなりの負担だったんでしょうね」
成美が言い終わると同時にスマホがメールの着信を告げた。
「母から返事がありました」
「何って?」と姉が反応した。
「『面白そうね』って。さっき概要をまとめたからメールで送信しておきますね」
「いつのまにまとめてたの?」と母は感心する。「さすが未来のドクターね」
「私も博士課程が終わったらドクターだから」と姉は漏らしたが、自分で恥ずかしくなったのか話題を戻した。「月よりの使者と一緒に人類を救済するイベントなんて、きっとお母さんもワクワクするんじゃない?」
「ごめんなさい。現実主義の母は信じないと思うので、メールではそのことには触れずにイベントの概要だけ」
「お母様のお名前、羽山ユカリさんだったわね? 前にテレビで見たことがあるわ」と母は言う。
「へぇ? 有名な人なんだ」
姉が身を乗り出すと、成美はバッグから母親の名刺を取り出した。
「ユカリは縁やゆかりの縁の字を書くんです。でもミドリって読まれてしまうことが多いから、独立したときに今のカタカナ表記にしたらしいです」
「前は会社にいたのよね?」と母が尋ねた。「広告代理店だったかしら」
「はい。結婚と同時に退職したんですけど、私が幼稚園の頃に両親は離婚して、母は元の職場に再就職しました。でも、スポンサーや政治家に忖度する仕事に嫌気がさして独立したんです」
「なるほど」
成美のお母さんは、北海道、沖縄、九州と出張続きでしばらく休暇がなかったという。そんなユカリさんが羽田からまっすぐこちらに向かっていると聞いて、ぼくたちは夕食の支度を整えることにした。
ぼくがオーブンでローストチキンを焼いている間に、母はパスタを茹で、姉はサラダを用意する。成美は近所の酒屋にワインを買い出しに行った。
そうして羽山ユカリさんが初めて我が家にやってきた。
初対面の挨拶を一通り終えた後、ミウを除くぼくたち五人はダイニングテーブルを囲んで席に着いた。
「ミウはどうする?」と姉が尋ね、二階に呼びに行った母は、結局一人で降りてきた。
「まだ眠っていたから、もう少し休ませてあげましょう」
乾杯の準備をしている間、ユカリさんはぼくの前に置かれたワインボトルをじっと見ていた。
「それはノンアルコール?」
「はい」と素直に返事をすると、姉はぼくを
「弟は二十歳になったのにアルコールが全くダメなんですよ」
ユカリさんは笑いながら言った。
「私もそれにするわ。このあと大事な仕事の話になりそうだから」
母もユカリさんを真似てノンアルコールにしたが、成美と海はグラスになみなみとシャンパンを注いだ。テーブルに置いたワインクーラーにはまだ二本のボトルが残っているが、二人の酒豪はそれも飲み干すつもりらしい。
「出張お疲れさまでした」と労いの声を掛けた母がそのまま乾杯の音頭を取った。「新しい出逢いと、出発と、そしてミッションの成功を願って、乾杯!」
夕餉も一段落した頃に、ユカリさんが本題を切り出した。
「最終の会場は広島と長崎として、スタートは東京で良いのかしら?」
「はい」とぼくは応えた。
「屋外だと天候が心配ね。屋内の大規模施設だと、東京ドームや国立競技場、味の素スタジアムなら五万人以上OK。何日かに分けて一日一万人程度なら、武道館、国技館、代々木の第一体育館、有明コロシアムとか会場の候補も増えるけど……」
どうやら成美のお母さんは、ぼくたちが考えていたより遥かに大きなイベントを想定しているらしかった。今はどこにも予算がないことや、無償で働いてくれる多くの協力者が必要なことを、やる気満々のイベントプランナーにどうやって伝えたら良いんだろう?
「成美のメールでイベントの大筋はわかったけど、肝心なクライアントやスポンサー、それに予算のことが何も書かれてなかった。かなり大がかりなイベントになると思うけど、スポンサーはいったい誰なの?」
沈黙の時が流れた。
どう説明しようかと考えていたら、アルコールの勢いを借りたのか成美が口を開いた。
「スポンサーはいない」
「どういうこと?」とユカリさんは真顔になった。「それじゃ予算は?」
「予算は、今のところゼロ」
「スポンサー無し。予算ゼロ。予算ゼロ……予算ゼロ?」と娘の発した言葉をオウム返しのように繰り返しながら、ユカリさんは呟いた。「エイプリルフールでもないのに何かの冗談?」