第25話 長崎へ

文字数 2,492文字

 ミウがいなくなって心の中にぽっかり穴が空いてしまったぼくは、翌年の春に変化を求めて短期留学した。行き先は父が教授を務めているアルジェリアの大学。母はあまり賛成してくれなかったが、姉と成美が背中を押してくれた。
 その留学先でぼくは、姉が「宙はもっと大人になったほうがいい」と言っていた言葉の意味を思い知ることになる。着いたその日に父から若いフランス人の助手を紹介された。かつて教え子だったというその女性は要するに父の恋人というか不倫相手で、まるで夫婦のような二人の間には一歳になる娘がいた。フランス人形のように可愛らしいその子のことを父はぼくの妹と言ったが、ぼくには戸惑いしかなかった。ずいぶん迷った末にぼくは姉にメールし、姉からの返信で両親が離婚寸前という現実を初めて知らされた。

 その後に旅した中東やアフリカでは、内戦と呼ばれる残酷な殺し合いの爪痕や、伝染病や食糧不足に苦しむ人々の悲惨な姿を目にした。ぼくはカメラを手にするモチベーションも失い、UFOの写真や猫の動画を眺めながらぼんやり過ごすことが多くなった。そんな様子を見かねてか、成美はぼくを度々誘い出してくれた。最初は写真部の撮影会の下見で行った横浜。その後も遊園地や映画や食事とデートを重ねた。でも、最後にキャンプ場で一晩過ごした翌朝、別れ際にこう言われた。
「そうやっていつまでも可哀想な自分を一人で慰めてたら?」
 それ以来成美とは会っていない。彼女は大学病院の先輩医師と付き合っていると人伝に聞いた。

 父の一件で生物学に興味を失ったぼくは大学院への進学を選ばず、学んでいた遺伝子の知識を活かして卒業と同時に友人たちと起業した。会社は小さいなりにベンチャー企業として順調に伸びていったが、仲間の一人が『日本のイーロン・マスク』を自称するタレント紛いの経営者をCEOに招いたあたりから雲行きが怪しくなった。会社はぼくの知らないところでどんどん拡大を続け、その一方で多額の負債を抱えて倒産し、手元には何の価値もない紙切れだけが残った。

 人類は、世界がひとつになれるチャンスだったパンデミックの危機を生かすことも出来ず、その後の侵略戦争では多くの尊い命が奪われた。紛争や暴動は後を絶たないし、核開発や核保有国は増え続け、SDGsやLGBTQなんて言葉だけ。環境破壊や差別は一向になくならないし、長い間戦争のない日本でも幸福を感じる人は殆どいない。いじめ、リストラ、パワハラ、セクハラ、詐欺、脅迫、横領、そして謂れなき暴力や殺人。上がり続ける物価と下がり続ける庶民の生活水準。一部の投資家だけが富を独占し、非正規雇用の庶民は使い捨てのように働かされる。そして繰り返される幼児虐待や自殺といった負の連鎖。度重なるインフラのストップや、他国の脅威が不安を煽り、「国民を守るためには軍備拡大と抑止力としての核武装が必要」と声高に叫ぶ政治家たち。

 ミウのいた夏から四年が過ぎた。ぼくはその間に何度オーヴァーロードに問いかけたことだろう。
——全人類の僅か十万分の一に過ぎない、八万四千三百十九人の善念にどんな意味があったのでしょう? 
——善良な月の民を移住させなければならないほど危険な存在である地上の民に、生き延びる価値などあったのでしょうか?
——人類はロードの『インパクト』で七年前に滅びてしまったほうが幸福だったのではないですか?
 オーヴァーロードは何も応えてはくれなかった。

 そんなぼくのもとに、イタリア人火山学者と一緒にローマで暮らす姉の海からメッセージが届いた。そこにはたった一言『宙、とにかく見て!』とあり、その下に動画サイトのリンクが貼ってあった。
 それは、長崎で保護猫活動をしているNPO法人を紹介するテレビ番組の紹介動画だった。流暢な日本語でインタビューに答える代表の素顔が映し出された瞬間、ぼくの目は釘付けになった。ナレーターは「十代の頃日本にやってきた避難民でその後に帰化した」と説明していたが、『NPO法人代表 如月美雨(きさらぎみう)』というテロップの下に映る女性は、七年後のミウに間違いなかった。すぐに動画サイトにあったリンク先の住所と連絡先を確認したが、日曜の午後だったためか電話には誰も出ない。居ても立ってもいられなくなったぼくはオンラインでその日の長崎行きのフライトを予約し、スマホと財布だけを持って家を飛び出した。

 ぼくの心の中で風化しかけていたが、あの夏たった十日間で八万四千人を超える人々が祈りを結集してくれた。それは紛れもない事実だ。見返りを求めず平和を祈ってくれた彼らの善念のおかげでぼくたちはこうして生かされている。長崎行きのフライトの機内で、ぼくは鳥居さんの言葉を思い出していた。
「なろうとなるまいと世界平和を祈り続ける……」
 そのとき、通路を隔てて並びの席に座る女性と目が合った。
 その人は優しく微笑みながらこちらに会釈すると、目を閉じて紙コップに注がれた一杯のコーヒーに静かに合掌した。その横顔はまるで弥勒菩薩のようだった。もしかしたら、この人もミウのいた夏に善念を送ってくれた一人かもしれない。そう考えたら、感謝とともに小さな希望がぼくの胸の中で膨らみはじめた。

 ロードが見放した人類にオーヴァーロードは手を差し伸べた。それなのに、なぜ次のミッションを与えてくれなかったのか。その理由をぼくは漸く理解した。人類が月の民や月の子供たちと共に知恵を絞って平和を築いていく——そんな未来をオーバーロードは信じていたに違いない。
 七年の歳月を経てぼくたちはそれぞれ大人になった。今のぼくたちなら、与えられたミッションではなく、自分たちで知恵を出し合って一緒に行動を起こせるかもしれない。小さな希望はぼくの胸の中で確信に変わり、自然と笑みが溢れてきた。

 ふと窓の外に視線を移すと、雲間に浮かぶUFOが目に映った。それも一機じゃない。二機、三機、四機、五機——陽光を受けて金色(こんじき)に輝く月の人々のマザーシップはV字型に編隊を組んで、ぼくの乗るフライトと同じ方角を目指していた。

                <了>
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