第22話 エアストリーム

文字数 3,067文字

 増上寺での三日間、京都の東寺での三日間、そして広島での二日間、些細な行き違いや小さなトラブルはあったものの、イベントはまるで一年前から念入りに準備されていたようにスムーズに進んだ。通常の労働条件からは考えられない一日十二時間という時間設定も、三つの時間帯に分けられた「ご奉仕チーム」によって無理なく無駄なく進められ、その日の役目を終えたスタッフはみんな満足そうに帰って行った。
「神様が——仏様が——お護りくださる」と言う彼らの言葉に、はじめは違和感を持ったぼくも、東寺で立体曼荼羅と呼ばれる二十一体の仏像を目にしたとき、本当に目に見えない神仏の力を感じた。もしかしたら弘法大師や密教の阿闍梨(あじゃり)たちは、深い祈りの中で宇宙を司る智慧の存在を感じ取り、それを具象化したものが曼荼羅や仏像になったのかもしれない。とすると、曼荼羅の中心に存在する大日如来こそがオーヴァーロードということになるのだろうか?

 賢者のリングは八日間で——東京で二万四千七百三十六、京都で二万五千七百七十七、広島で一万七千十一——合計六万七千人以上の善念を集め、『平和への祈りーPrayer of Peace』は広島の平和祈念式典で世界に大きく報じられた。
 このあと長崎の式典を終えると、『祈念石=Prayer Stone』と名付けられた石の欠片は二分割され、広島・長崎それぞれの施設に収められる。
 実際に善念を集めていたのはリングなのに、それを知っているのはぼくたちだけだ。元々は周囲を覆っていただけの石を『尊い物』として奉ることに、ぼくは相変わらず違和感を感じていた。なんだか世界中の人々を欺いているような気がしてならなかったが、大切なミッションを完遂(コンプリート)するためには他に方法がない——と自分に言い聞かせた。

 八月六日の朝、式典に立ち会ったぼくとミウは、ユカリ・プランニングの社員、武谷さんと鈴木さんと一緒にランドクルーザーに乗り込んだ。ユカリさんと母たちの四人は時間を節約するためにフライトで長崎に向かうが、ぼくたちは陸路で一足先に広島を出発した。グランドチェロキーという大型のジープは、エアストリームというアメリカ製の大きなキャンピングトレーラーを牽引している。本場ではトラベルトレーラーと呼ばれ、ノマドのように旅をしながら暮らしている人もいるらしいが、このイベントの開催中、ユカリさんはエアストリームをノマド・オフィスとして利用していた。
 ドライバーの山本さんは、トレーラーを固定して自分の仕事を終えると、ジープに乗ってさっさとホテルに引き上げてしまうが、武谷さんと鈴木さんは東京からエアストリームをホテル代わりにしていた。その名の通り流線型の飛行機のような金属製のボディの中には、キッチンもシャワールームも完備していて小さな家みたいだ。シルバーの外観がマザーシップを思い出させるのか、ミウはエアストリームをとても気に入っていたので、ぼくたちも京都から寝泊まりすることになった。この数日で四人はすっかり打ち解け、はじめはその存在をすごく不思議がっていた彼らもミウを妹のように大事にしてくれている。トイレとシャワーしかないので、風呂だけは外の銭湯や温泉を利用していたが、京都の二日目には手を繋いで女湯の暖簾を潜るほど武谷さんとミウは親しくなっていた。
 二日前に三十路を迎えたというのに大学生くらいにしか見えない小柄な武谷優美さんは、見かけによらずものすごく頭が切れる。逆にバスケットボール選手のように大柄で、姉と一つしか違わないのに三十過ぎに見える鈴木祥太郎さんは、見た目と正反対に気が弱くてちょっと頼りない。でも彼が三人の姉の下の末っ子と聞いて、なるほどと納得した。一人でもちょっとやっかいなのに、上に三人もいたらいくら立派な身体の持ち主でも絶対に大きな顔は出来ないだろう。
 
 この数日間で、ぼくが宗教に抱いていたイメージはずいぶん変わった。言葉が馬鹿丁寧だったり、ちょっと違和感を感じるところもないわけじゃないけど、みんな意外と普通の人たちだ。
「私が呼びかけたのは温厚で常識的な団体ばかり。過度に排他的だったり、非常識な会費を取るようなカルト的な団体は最初から除外してるから」とユカリさんは話していたが、確かにボランティアの人たちも指導者クラスの人たちも穏やかな人が多く、あまり怪しそうな人はいない。中でもぼくが感心したのは全ての宗教団体のリーダーを手際よくまとめ、ユカリさんが全幅の信頼を寄せる鳥居さんと言う人物だ。神社を連想させる苗字に似合わず、彼は仏教系団体「乗宝院(じょうほういん)」のナンバーツーで権大僧正(ごんだいそうじょう)という僧侶の位を持つというが、いつもスーツやワイシャツ姿で髪はふさふさしている。東大出身の理学博士という鳥居さんはとても気さくな人で、誰に対しても平等に接し、奢ったところがまったくない。東寺で立体曼荼羅の意味や仏像一体一体の特徴や性格を、アスリートに喩えて分かり易く説明をしてくれたのもその鳥居さんだった。
 どうやらユカリさんはそこの信者らしいが、成美も秘かに尊敬しているらしく、鳥居さんがノマド・オフィスを訪ねてくるとそわそわと落ち着かなくなる。ぼくが「もしかして成美も信者なの?」と尋ねたら「ご想像にお任せします」と(かわ)された。
 確かにイケメンと言われればその類いかもしれないが、姉の海も鳥居さんには魅力を感じているらしい。
 鳥居さんだけじゃない。このイベントで接した人たちには人たらしが多いから、気づかないうちに信者にされそうで正直怖い。ぼくはたとえ指導者がどんなに素晴らしい人でも絶対に宗教にだけは入らないと決めている。でも、もしどこか一つに入らなければ殺す——と言われたら、そのときはぼくも乗宝院を選ぶかもしれない。


 関門海峡を越えてぼくたちが長崎の平和公園に到着したのは、空が紅く染まり始めた頃。エアストリームが夕日を反射して眩しく、ぼくはこの世のものとは思えない幽玄な雰囲気を感じていた。
 ミウと二人で平和祈念像の前に立つと、止めどなく涙がこみ上げてきた。隣のミウはTシャツこそ違うが、あの時と同じ姉のスカートとブルーのスニーカーを履いている。
「ずいぶん前のことなのに、つい昨日みたいに感じる。あの時は……」と言ってミウの顔を覗き込んだぼくは、ひどい雨だったね——と続けるつもりだった言葉を飲み込んだ。ミウにとって、ここは初めての場所なのだ。

 視線に気づいて公園の端に目を向けると、木々の下から大勢の猫たちがミウの姿をじっと見つめている。心配そうに目配せするミウに「行ってあげたら?」と言うと、安心したのか目を細めてぼくに会釈し、彼女はそちらに向かって歩きはじめた。すると猫たちは一斉に鳴き声を上げながらミウに駆け寄り、その場で例の集会が始まった。

 公園内の準備はすっかり整っていた。ミウを残して一人エアストリームに戻ると、ちょうど母たちが到着したところだった。
「お疲れさま」と互いに労ったが、海が怪訝そうな顔で「ミウは?」と尋ねたので、ぼくは「猫と集会中」と伝えた。
 ユカリさんは現場で最後の打合せをしているというが、窓の外はもう暗くなり始めていた。
「いよいよあと三日ね」と母が感慨深げに口にした。
「宙は寂しいでしょ?」と姉はぼくを憐れむように言う。「もうすぐミウがいなくなっちゃうから」
 悔しいけれど、そう言われるとぼくはなにも言葉が出ない。そんなぼくを成美が励ましてくれた。
「いつかはわからないけど、宙はきっと成長したミウにまた会えると思うよ」
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