第7話 ミッション

文字数 3,081文字

 長崎平和公園でタクシーを降りると、黒い雨雲のせいで辺りはすっかり暗くなっていた。ぽつりぽつりと雨が降り始め、祈っていた人々も観光客も、急ぎ足で公園を去っていく。ぼくのリュックには折りたたみ傘が入っていたが、ミッションのことを考えたらとても取り出す余裕などない。ぼくたちは祈念像の前に立っていた。
「あの人差し指にこのリングを掛けるんだね?」
 あらためて見上げるとすごい高さだ。ミウの顔を覗き込むと、視線をその指先に向けたまま大きく頷いた。ぼくはミッションの流れを頭の中でシミュレートした。祈念像の周囲は池になっているが水深は浅い。

——ぼくは背後から銅像の台座の石垣まで近づき、そのまま待機する。
——周囲に人が居なくなったら、お互い目で合図してタイミングを知らせる。
——ミウは公園の片隅に移動し、防犯アラームを鳴らして注意を引きつける。
——警備員がミウに近づくその隙にぼくは平和祈念像によじ登って、上空に突き上げた太い人差し指にリングを掛ける。

 もはやぼくには疑う余地も断る余裕もなかったが、冷静に考えればかなり奇妙なミッションだ。今更ながらぼくは訊ねた。
「このミッションって、いったい誰からの指示なの?」
「オーヴァーロード」とミウは答えた。「デモ クワシク オシエテクレタノハ ソラ」
 ミウが言ってることをぼくはさっぱり理解できなかったが、今更引き返すことなど出来ない。雨足はどんどん強くなっていく。空の向こうで稲妻が光り、しばらくすると雷鳴が低く響いてきた。ぼくたちはそれぞれの持ち場へ移動した。
 ぼくは祈念像の背後から靴を脱いで裸足で池を渡るつもりだったが、すでに足元はびしょ濡れだった。スニーカーを履いたまま池を渡って石垣まで辿り着くと、カメラ一式を入れたリュックを石垣の影に隠して、じっとタイミングを伺う。

 公園内に人影が見えなくなった。ミウと目が合い、ぼくは大きく首を振ってOKの合図を送る。ミウは所定の位置に移動し、トートバッグから防犯アラームを取り出す。すると、公園内にけたたましい警報音が鳴り響いた。
 警備員がミウのいる場所に駆けつけるそのタイミングを見計らって、ぼくは祈念像を登り始めた。雨に濡れた銅像の表面でスニーカーのソールが滑って、なかなか上手く登ることが出来ない。ようやく肩のところまでよじ登って人差し指にリングを掛けるのと、警備員がぼくを見つけて大声で叫ぶのはほとんど同時だった。ぼくは滑り落ちるように像を駆け下り、大急ぎでリュックを手に取って警備員が立つ反対側の池を渡ったところでもう一人と鉢合わせした。公園内を見渡しても、もうミウの姿はどこにも見当たらない。稲妻と雷鳴の間隔がどんどん短くなっていく。

 降りしきる雨の中、ぼくは公園の管理事務所に連れて行かれた。警備員の一人が壁に備え付けの装置でどこかと連絡を取り合い、二人が指に掛けたリング——彼らは指輪と呼んでいた——をどうするか相談しはじめた。その時だった。平和祈念像を中心に辺り一面が真昼のような明るさに包まれ、同時に地鳴りのような音と激しい衝撃を受け、ぼくも警備員たちも床に倒れ込んだ。突然の停電で室内は真っ暗になった。窓の外も、空は分厚い雨雲に覆われてまるで深夜のようだ。ぼくは逃げるつもりなんてなかった。でも、心の中で何かが、早く速く——とぼくを急かしていた。慌てふためく警備員たちを置き去りにして、ぼくはリュックを抱えたまま事務所を飛び出し、一目散で公園を駆け抜けると、びしょ濡れの身体のままタクシーに飛び乗った。

 ホテルの部屋で濡れた服を脱ぎ、頭からシャワーを浴びながらぼくは自問自答した。このミッションの目的はなんだったんだろう? 何かとんでもない犯罪の片棒を担がされたのだろうか? 不安が過ったが、やり遂げたばかりのミッションに爽快感を感じることはあっても、不思議と後悔や後ろめたさは感じなかった。

 翌朝、テレビを点けると、どの局も平和祈念像を直撃した雷のニュースで持ちきりだった。画面には祈念像が映っていた。見たところ異常はなさそうだったが、その人差し指にリングはない。アナウンサーが原稿を読み上げる。
「落雷当時、公園内にはほとんど人がいなかったため、怪我人などの被害報告は入っていません。空を指している祈念像の右手人差し指は避雷針になっているため、周囲に被害が及ばなかったことは不幸中の幸いと言えるでしょう」
 ニュースコメントに合わせて祈念像の人差し指がアップになると、リングを掛けた辺りだけがうっすらと変色している。アナウンサーは先を続けた。
「なお、二人の警備員が見たという巨大な指輪はその後も見つかってはいません。また、銅像に指輪を掛けたとされる少年も、公園内で警報器を鳴らしたという少女も、その後の行方は明らかになっていないとのことで、関係者は二人の行方を追っています」
 行方不明の少年少女はぼくとミウのことだ。恐る恐るニュース番組の続きを見ていると、「落雷による停電トラブルで監視カメラの映像が全く残っていない」とコメンテーターが説明していた。つまり、警備員以外にぼくやミウの顔を見た人はいないということになる。タクシーの運転手のことを思い出したが、まさか自分が乗せた若いカップルがそんな大それた事を仕出かしたとは想像もしないだろう。それでもまだぼくの心臓はバクバクと高鳴っていた。もし捕まってしまったら、いったいどんな罪になるのだろう? 万が一何かの罪に問われれば、言い逃れのできない実行犯であることは間違いない。未成年の自分がもし取り調べを受けることになれば、両親に迷惑を掛けることになる。とりあえず状況を伝えておくために、母にショートメールを送った。
『昨日の夕方、長崎の平和公園で起きた落雷事故に関わってるんだ』

 心配した母からすぐに電話があった。落雷のニュースは東京でも報道されているとぼくは思い込んでいたが、テレビで見ていたのはローカルニュースらしく、母は全く知らなかった。ちょうどその時間帯に公園にいたことで、「もしかしたら何らかの嫌疑がかかるかもしれない」と、それだけ母に伝えた。
「嫌疑って何? どういうこと?」
 母は納得していなかった。
「ぼくが雷を呼んだとか、そんな疑いがかかるかもしれないってこと」
「何それ? ずいぶん誇大妄想な話ね」と母は笑っていた。「怪我はなかったのね?」
「大丈夫。すごく元気だよ。それにUFOの写真も撮れた」
「すごいじゃない!?」
 必要なことは伝えた。詳しいことは電話では伝え切れないし、ミウやミッションのことを説明しても到底信じてもらえるとは思えなかった。電話を切って、あらためて部屋の窓から外を眺めると、夏らしい青空が広がっている。平和祈念像の様子をこの目で確かめてみたかったが、犯罪者は現場を訪れる……という話もある。もし昨日の警備員と出会してしまったら、もう逃れようがない。

——あのリングはいったいどこへ消えてしまったのか?
——このミッションの目的はなんだったのか?
——ミウはどこへ行ってしまったのか?

 次々に浮かぶ疑問を心の中に押し込め、とりあえず腹ごしらえしたぼくは、昨日ミウと出会った妙行寺に足を運んでみた。けれど境内は猫の姿もまばらで、もちろんそこにはミウの姿もなかった。
 そのまま長崎に留まっていたら、容疑者として見つかってしまうリスクが高まる一方で、一人でミウを見つけ出せる望みはあまり持てそうもない。UFOの写真を一日も早く現像したかったぼくは、予定を二日早く切り上げて東京に向かった。

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