第23話 八万四千の善念

文字数 2,324文字

 八月八日午後九時、平和の祈りの全てのイベントが終了した。
 ご奉仕チームはたった二時間で仮設テントやスロープを跡形もなく撤収し、作業完了を見届けたチーム・ユカリのメンバーと二人の社員はレンタカーでファミレスに出かけた。彼らは夕食を摂っていなかったが、ちょっとした合間に差し入れのうな重を頂いたぼくと姉の二人はノマド・オフィスの留守番をすることになった。ミウはかなり疲れていたので、母がそのままホテルに連れて行き、代わりに海がエアストリームに泊まる予定だった。

 実は増上寺での二日目に、最終日に到達する善念の数を予測した時は目標値に僅かに届かなかった。そのため、京都では予め時間を延長できるよう準備して予約枠を拡大した。それでもどれだけの参加者が善念を送ってくれるかは未知数だったから、一人でも多くの人が純粋に善念を送ってくれるようぼくたちは必死で祈った。回収したリングに手を触れたミウが、目標に三百十九を加えた総数を伝えてくれたときは全員が安堵のため息をついた。長崎で一万六千七百九十五を加えた善念の総数は八万四千三百十九だったが、その数は公式発表された参加者数八万六千九百二十四名の九十七パーセントだ。
「一日平均八千四百三十一・九人か。ほんとにギリギリだったね」
 ぼくが溜息交じりに漏らすと姉が今更ながら尋ねた。
「ねぇ? この八万四千って数にはどういう意味があるの? 母は仏教によく出てくる数だって言ってたけど」
 そのとき、入り口に鳥居さんが立っていることに気づいた。
「気づかなくてすみません」と姉は慌てて立ち上がった。「どうぞ上がって下さい」
「羽山さんはもうホテルですか?」と鳥居さんはドアの外に立ったまま尋ねた。
「スタッフとファミレスに行ってますけど、もう間もなく戻って来るはずです」と姉が答えた。
「お二人は留守番ですか?」
「ぼくたちだけ差し入れのうな重を頂いてしまったので、その代わりに」
「鳥居さんは?」と姉が尋ねると、「私もうな重をいただきました」と彼は笑顔で答えた。
「良かったらコーヒーでも如何ですか?」とぼくは声を掛けた。
「それじゃ、羽山さんが戻られるまで待たせていただきましょうか」
 鳥居さんがステップに足をかけると、姉は自分の隣を広く空けたが、彼は姉の期待を裏切ってぼくの隣に腰を下ろした。
「どうぞ」と姉がコーヒーを注ぐと、鳥居さんはマグカップに合掌した。
「ありがとうございます。いただきます」と言って一口すすると、再び口を開いた。「立ち聞きするつもりは無かったんですが、さきほど一日平均八千四百三十一・九人っておっしゃってましたね」
「え……はい」とぼくは口ごもった。
「それに十を掛けると八万四千三百十九という素数になりますね」
 素数がパッと出てくるのは流石だ。ここに成美がいたらきっと話が弾むに違いない。
「皆さんが八万四千という目標を設定された理由は『ある閃きによる』と、羽山さんから伺いましたが……」
 善念の数をどうやって計っているのか聞かれるのかとドキドキしたが、鳥居さんは敢えてそこには触れないでいてくれた。
「鳥居さんは、この八万四千っていう数に何か意味があると思いますか?」と、逆に姉が質問した。
「先ほどは素数と言いましたが、私にはその八万四千という数に数学的な意味をあまり感じないんですよ。仏教では、数えるのが困難なほど沢山の数を表すときによくこの数字を使うんです。八万四千の法門とか、八万四千の煩悩とか、八万四千の毛孔(もうく)……毛孔(けあな)とか、八万四千の相好(そうごう)——この場合は表情ではなく仏の身に備わった特徴を表しますが。だから実数として八万四千人をカウントするこのイベントの趣旨をお聞きしたときに少し驚きましたし、とても不思議に思いました」
「それなのに疑問を持たずにプロジェクトに参加というか、賛同されたのは何故ですか?」と姉は、またなんとも微妙な質問をする。
「み仏が望まれている、と祈りの中で感じたからです。そもそも私たち宗教家には、なろうとなるまいと世界平和を祈り続ける使命がありますから」と柔和な笑顔で応える鳥居さんの横顔を見て、ぼくはアルカイック・スマイルで知られる飛鳥時代の弥勒菩薩を思い出した。
「ひとつ、私からもお聞きしたいことがあるのです」と今度は鳥居さんからの質問だ。「ミウさんのことですが」
「ミウが何か?」とぼくは身構えた。
「お答えいただけたら、それ以上は何も聞きませんし、詮索もしません。もちろんどのようなアクションを起こすつもりもありません」
「どんな質問ですか?」と姉がストレートに聞き返したので、ぼくはドキドキした。
「羽山さんから日本の方ではないとお聞きしましたが、どちらからいらした方ですか? かなりお若いようですが、とても深い慧眼を持たれた方とお見受けしたものですから」
 姉は何も答えない。ぼくは心臓が激しく高鳴るのを押さえるのに必死だったが、鳥居さんはずっとアルカイック・スマイルを浮かべている。
「地球外から……です」とぼくは答えた。妙に繕うより本当のことを話した方が、冗談で済ませてくれるように思ったから。ところが、鳥居さんは笑顔を浮かべたままこう言った。
「やはりそうでしたか。正直にお答えくださりありがとうございます」

 間もなく、ユカリさんが二人の社員と一緒に戻ってきた。
「宙くん、今日はホテルで休んで。ずっとここを守ってくれたから、最後の夜だけでもホテルのベッドでゆっくりしてほしいの」と言ってユカリさんはレンタカーの鍵を預けてくれた。「海さんも、ここは私たちに任せてホテルに戻ってね」
 鳥居さんとユカリ・プランニングの三人に挨拶を済ませると、ぼくはハンドルを握って姉の案内でホテルに向かった。
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