第12話 シュラフの中

文字数 2,629文字

 ようやく立ち上がったぼくの目の前で、彼女は何も言わずにじっと立ち止まっている。全身を覆うゼリー状の物体のせいで、髪の毛にも身体にも木の葉や土が付着していた。
 ぼくは持っていたタオルで汚れた身体を拭いてあげようかと一瞬考えたが、小さなタオルじゃ役に立ちそうにない。目のやり場に困ったぼくは、レインスーツの上着を脱いで肩に羽織らせた。
「ミウ、いったいどうしちゃったの?」
 こちらの呼びかけには反応しないが、音には反応しているらしい。長崎で会った時のことを思い出し、ぼくは彼女の手を取って心の中で話しかけてみた。
(ミウ、いったいどうしちゃったの?)
(ミウ?)
(ミウじゃないの?)
(ワカラナイ)
(ミウじゃなければ君はいったい誰?)
 返事はなかった。

 とにかく汚れた身体を綺麗にしなければ……。進む方向を指差し、片手を握ったまま河原の方に向かって歩き始めたときにヒルのことを思い出した。ヒルだけじゃない、マダニも潜んでいるかもしれない。そんな森の中を裸足で歩くのは自殺行為だ。ジェスチャーで背中に乗るようになんとか伝えると、ぼくは彼女を背負って河原を目指した。

 華奢な身体は思ったよりずっと軽かったが、ゼリー状の物体がぼくの掌にもヌメヌメと纏わり付いて彼女の身体は何度も滑り落ちそうになる。一旦背中から下ろし、顔と腕と脚の一部だけをタオルで拭き取ってから、両腕をしっかりとぼくの首に巻き付かせた。
 歩を進めるたびに掌に感じる太腿の柔らかさとレインスーツ越しに感じる温もりが、もしかするとアンドロイドじゃないか? というぼくの疑念を拭い去ってくれた。

 河原に辿り着いたところで彼女を背中から降ろし、渓流に手を入れてみた。夏といっても夜の山間を流れる水は冷たい。
(いいかい? ここでじっと待ってるんだよ)
 不安そうに頷く彼女をそこに残したまま、ぼくは急いでテントに向かった。

 お湯の入ったポットと大きめのタオル、それに着替えのスウェットに下着。男物のトランクスしかなかったが、何もないよりはマシだろう。ジムニーに洗車用の不織布タオルが積んであったことを思い出し、両腕一杯に荷物を抱えて河原に戻ると、彼女は川の真ん中に横たわって髪や身体を洗っていた。
 浅い渓流ではその身を半分も水に浸すことはできないが、両手で掬った水を身を浄めるようにそっと身体に掛け、濡れた手で髪を整えるその仕草は人魚のように美しかった。ぼくは荷物を抱えたままじっと息を止め、月光に照らされる金色のシルエットにしばらく見とれていた。

 幸いジムニーには姉のシュラフも積んであった。タオルで髪や身体を乾かし、服を着せた彼女を隣に並べた姉のシュラフに寝かせ、ぼくも自分のシュラフに潜り込んだ。そして、狭いテントの中でしばらく向き合ったまま、ぼくは彼女の顔をじっと見つめていた。
 遠くからまたネコの声が聞こえた。この子は絶対にミウだ。ミウに間違いない。ぼくはそう確信していたが、何か言葉が欲しかったぼくは、シュラフから出した腕を彼女のシュラフの中にそっと伸ばした。手を握ると、強く握り返す。
(アリガトウ)
 はじめて微笑んでくれたその表情がランプに照らされ、瞳はキラキラと宝石のように輝いていた。

 その夜、ぼくたちは手を握ったまま眠りについた。夢の中でもぼくはミウと一緒にいたが、そこでは普通に会話をしていた。
「あなたたちは三十七月前に死に絶えてしまうはずだったの」
「三十七ヶ月前って……前にミウと出会った頃?」
「でも、あなたが会ったのは今の私じゃない」
「そりゃそうだよ。もう三年以上経ってるんだから」
「急がなきゃ。その三十七ヶ月前に行かないと、あなたはいなくなってしまう」
 そこで目が醒めた。

 テントの周囲からネコの鳴き声が聞こえる。先に目を覚ましたのか、ミウはシュラフの上に寝そべったまたまぼくの顔をじっと見つめていた。
(ナカマタチガ ヨンデル)
 ミウはしなやかな身のこなしでさっと立ち上がると、テントから外に出て行った。対照的にのろのろと起き上がったぼくは、眠い目を擦りながらその後に続く。
 外には沢山の猫たちが集まっていた。その中心に立つミウの姿は、朝日に照らされてまるで女神か観音様のようだった。人魚だったり女神だったり観音様だったり、自分でも節操がないと思うが、本当にそんな風に見えたのだ。
 ミウがその場にしゃがみこむと、猫たちは彼女を取り囲むように静かにそこに座った。それは、あの日お寺の境内で見かけたのと全く同じ光景だ。ミウは猫たちと話し合っているように見えた。見えただけじゃなく明らかにコミュニケーションを取っていた。ちょうど人間が会議で話し合うように。
 ぼくは少し離れたところからミウたちの集会を眺めていたが、しばらくすると猫たちは三々五々にその場を去って行った。

 テントを片づけ始めたぼくを、ミウは見よう見まねで手伝ってくれた。全てを片付け終わると、ぼくはジムニーの助手席にミウを乗せてかつてのキャンプ場を後にした。一度は森の中に消えていった猫たちの姿がバックミラーに映っていた。きっとミウを見送りに来ていたのだろう。
 
 母を驚かさないように、ミウのことは出発前に電話で伝えた。母からは、すぐに警察か病院に届けるように言われたが、ミウを赤の他人に引き渡したすのは絶対に嫌だ。ぼくが難色を示すと、事情を察した母は先ずミウの健康状態を診てみたいと言う。
 山道を出て車速が安定した直線路で、ぼくはミウの右手を握った。
(これから君を母の病院に連れて行くよ)
(ビョウイン?)
(心配しなくても大丈夫。君を診るのはぼくの母だし、小さな小児科医院で、今日は母以外誰もいないんだ)
 ミウはぼくが伝えたかったことを半分も理解できなかっただろう。

 母は杉並の住宅街にある畑中小児科医院で院長をしている。
 その小さな医院は母方の祖父、畑中洋平が開業して院長を務めていた。ぼくが中学に上がった年に祖父は急死し、家族で話し合った結果、一人娘の母が医院を引き継ぐことになった。大学病院に勤めていた母はずいぶん迷ったらしいが、「もっと忙しくなると覚悟して医院を継いだけど、逆に家でゆっくりする時間が出来た」とよく話していた。
 今は火曜と水曜の二日間は他の先生に診察を任せ、平日二日間と土曜日の午前中だけ診察しているが、木曜は休診日だから医院には誰もいない。母は一人先に準備して畑中医院で僕たちのことを待っているはずだった。

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