第16話 オーヴァーロード

文字数 3,033文字

 ミウに聞きたいことは山ほどあったが、ぼくは母や姉に遠慮して、そのあたりで質問を止めるつもりだった。でも成美は違った。
「ミウ、あなたはなぜここに来たの?」
「その質問……母たちがいる時じゃダメなの?」とぼくは成美の顔をじっと見つめた。「焦らない方が良いと思うんだ」
 険しくなっていた成美の表情が憑きものが落ちたように和らいだ。
「そうね。今日はここまでにしようか。いろいろ教えて貰えたし」
 握っていた手を解いて、ぼくはミウを労った。
「ミウ、ありがとう」
「ありがとう」と成美も頭を下げた。
「ドウイタシマシテ」とミウは成美を真似て頭を下げながら笑った。「アップルパイモ コウチャモ オイシカッタ ゴチソウサマ」

 天気の良い夜、ミウは外に出たいと言った。
「ナカマガ ヨンデル」
 ミウが近所の猫たちと集会をする度に、ぼくはボディガードというより遠くから眺めるだけの見張り役としてお供することになった。それ以来、猫はぼくにとってただ愛らしく可愛いだけの生き物から、何か畏敬の念を感じさせる存在へと変わっていた。

 猫は月の民と地上を繋ぐ見張り番だ。地上の人々の様子を猫たちが月の民や月の子供たちに報告していることを地球の人々は誰も知らない。でも、渡部さんやぼくのような人間は薄々気づいていたように思う。もちろん月ほど地球に近いところにいた種族のことなど、少なくともぼくは想像さえしなかったが。
 きっと渡部さんは、家族や親しい人にいくら月の世界のことを話しても、荒唐無稽なホラ話と思われて相手にされなかっただろう。猫以外に誰も共感してくれる相手がいなかった渡部さんの人生を思うと、家族や友人とこの不思議な体験を共有出来るぼくはなんて幸せなんだろう。

 成美が将棋を教えると、ミウは数日で名人並みにまで上達した。その頃にはぼくたちも、ミウの仲間——月の民や月の子供たち——が今暮らしている世界のことや、マザーシップのことをいくらかは理解できるようになっていた。

 月の子供や月の民が移り住んだ世界は、ぼくたちが住む宇宙とは次元を隔てた別の時空に存在する宇宙にあるという。それを理解するには多次元世界の概念を知る必要があるが、5次元以上の高次元世界には百三十八億年前に誕生したこの宇宙と同じような宇宙が無数に存在しているという。月の人々は、そのうちの一つに移り住んだというが、同じ次元に存在しないために、我々には認識することが出来ない。何光年とか何億光年とかの3次元的な距離を表す尺度は、時空を超えたその場所を特定するためには何の役にも立たないのだ。
 そんな異世界への旅を実現したのが彼らの母なる船だ。マザーシップは次元の壁を乗り越える力を持っている。だからUFO、いやマザーシップはこの世界から見ると、突然現れたり急に消えてしまったように見えるのだ。そして高次元の世界は、我々の世界の四つめの軸、つまり時間軸にも左右されないので、過去や未来に向かって旅をすることも不可能ではないという。しかしそれを実現するためには、マザーシップに極めて大きなエネルギーが必要になる。一度時間を飛び越える旅をすると、もう一度時間を超えるためのエネルギーをチャージするには百年近い時間を要するらしい。だから平均寿命百歳を超える月の人々でも、時間の旅は戻って来ることの出来ない片道旅行になってしまうという。

 疑問は尽きない。
 宇宙の歴史から見ればほんの僅かな時間かもしれないが、一万年前と言えば長い氷河期の終わる頃。まだマンモスが地上を闊歩し、メソポタミアやエジプトに文明が芽生えるより数千年も前の時代に、そんな並外れた知恵や技術を持っていたのはいったい誰なのだろう?
——月の民の先祖になる人々やイエネコの先祖を地球から月へ移住させたのは?
——酸素もなく重力も小さい月の裏側に高度な文明社会を築いたのは?
——ホモサピエンスをムーンピープルに、リビヤ山猫をイエネコに進化させたのは?
——そして、成美が質問しかけたあの疑問……ミウがやってきた目的は?

 そんなことを考えていたとき、姉の海がこんなことを提案してきた。
「そろそろあの『賢者のリング』のことをミウに聞いてみてもいいんじゃない?」
「姉さんもやっぱり、ミウはアンデスの賢者が言う『使者』だと思う?」
「そうね。ミウはああ見えてなかなかの賢者だし。それに、宙が長崎で会った子が今家にいるミウだったら、予め計画されていたとしか考えられない。偶然にしては出来過ぎてるでしょ」

 母と姉とぼく、それに成美を加えた四人が、ミウを囲むようにリビングルームに揃った。
 姉はマスクをしたままミウと距離を取っていたので、リングの入ったトートバッグをぼくに預けた。ぼくはバッグから石で覆われたリングを取り出してミウに見せた。しばらくじっと眺めていたミウは、目を瞑ってそっとリングに手を触れた。
「コノナカニ チエヲ アツメル リングガ アル」
「知恵の輪だ」とぼくは声を上げた。
「賢者のリング」と姉は訂正する。
「この周りの軽石のような物は崩せるの?」とぼくは訊ねた。
 ミウはリングを手に取って、自動車のハンドルのように両手で握った。するとそれは赤い光を放ち小刻みに振動し始めた。
「石が壊れる!」と姉は叫んだが、姉の場所からでは間に合わない。ぼくが急いでテーブルにあったトレイをリングの真下に差し出すと、結晶体のような物は蒸発して、灰のようになった石が細かく崩れてボロボロとトレイの上に落ちた。
 ミウの手に残ったのは、あの母船とよく似た輝きを持つ金属質のリングだった。
「これだよ!」とぼくは叫んだ。「ミウが三年前に持っていたのは」
「これは何をするためのもの?」と成美が尋ねた。
「ヒトビトノ ゼンネンヲ アツメルモノ」
「ぜんねん?」と成美はその意味を咀嚼していたが、すぐに理解したようだった。
「仏教語ね」とそれまで黙って見ていた母が言った。
「ゼンネンってどういう意味?」とぼくは尋ねた。
「悪念の反対の意味よ。善悪の善に念じるの念を書いて善念。例えば、人の幸せを祈ったり、世界の平和を願ったりする心や思いのこと。ミウはたぶん教育番組でその言葉を覚えたのね」
「なるほど、善念か」
「でも、リングに善念を集めていったい何をするの?」と母は不思議そうな顔でリングを見つめる。
「長崎の平和の像の指に掛けるんだ」とぼくは説明した。「今までに何度も話したことだけど」
「それはわかってるけど、いったい何のために?」
「ミッションを指示したのはオーヴァーロード、って前に宙が言ってたよね?」と成美はぼくに振った。
「ぼくも知りたい」とぼくはミウの目を見つめながら問いかけた。「オーヴァーロードって誰なの?」
「まさか、悪魔みたいな姿をした宇宙人じゃないよね?」と成美は奇妙なことを言う。
「オーヴァーロードハ ウチュウジンジャナイ ウチュウヤ セカイノ ヘイワヲ ツカサドル チエ ソノモノ」
「神のような存在?」とぼくは訊ねた。
「真言密教の大日如来みたいな感じかな?」と母は言う。
「ワタシガ オシエテモラッタ オーヴァーロード ニハ トクテイノ スガタカタチハ ナカッタ」
「どういうこと?」
「アルトキハ ヒトノスガタ アルトキハ ホシノスガタ アルトキハ オオキナフネ アルトキハ チイサナイキモノ」
「なんだかよく理解できないな」
「ワタシタチノ センゾヤ ネコタチノセンゾヲ ツキニ ツレテイッタノモ オーヴァーロード」
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