第3話 ニコラシカ

文字数 1,314文字

「慎さん、今夜は冷えるねぇ」
 恰幅のいい常連客がひとり、両手をもみ合わせながらカウンター席に腰を下ろした。広告代理店勤めだと以前聞いたことがある。

「そのようですねぇ、昼間は暖かでしたが、日が落ちてめっきり冷えてまいりました。花冷えでございますね。都内でも雪が降りましたしね。桜にとっては物騒な話です」

「春なのにぃ、春なのにぃ、って歌あったよね慎さん」
「えぇえぇ、ございましたね」
「榊原郁恵だったよね」
「いえ、柏原芳恵ですよ。たしか中島みゆきの作品でしたね」

「だったっけ。ごっちゃになっちゃうんだよねあのふたり。じゃあ、何か体の温まるものをもらおうかな──といってもホットウィスキーはかなり苦手かな、あれを飲むとむせちゃうんだよね。なんかいいものありますか」

 体が温まるお酒。
「ございます」

 客の要望に応え、ショットグラスにブランデーを注ぎ、スライスしたレモンをかぶせ、メジャーカップで形を整えた上白糖を乗せた。

 リキュールグラスで提供する店もあるが、飲みやすさを考えてショットグラスにしている。どんな形で出そうが、それはチーフバーテンダーである私の裁量だ。

「どうぞ」
「慎さん、何これ」
「ニコラシカです」



「どうやって飲むの」
「両端を持ってレモンスライスをきゅっと丸めてください。それから頬の内側に入れてください。そして、噛みしめて酸味と甘みが広がったときにブランデーを口に入れてください。そして口中で味を楽しんで飲み下してください。ブランデーを飲む前によく噛めという人もいたりしますが、そこはお好きにどうぞ。ブランデーを口に運びたくなるタイミングは人によりけりですから、誰かに教わるものでもありません」

 男は言われたとおりにそれを口にした。そしてブランデーを口に運び、頷きながら噛んで飲み下した。
「鼻から抜けるブランデーの香りも楽しんでくださいね」

 目を閉じて楽しんでいるようだ。そして、口角がキュッと上がる。
「旨い!」カウンターに身を乗り出した。
「これ旨いね慎さん!」まるで手品の種でも眺めるように、ショットグラスを指先で回した。

「すぐに体が温まりますよ」
「これはすごい。家でも簡単にできるしね。これを知らずして過ごした半生が悔やまれる」
「それはなによりでした。今お出ししたものは単品飲みにも耐えられるそこそこのブランデーを使いましたが、家でやるときはいいブランデーなんて必要ありません。安物で充分。私も若いころはこれにハマった時期がありますね。お店じゃなくて自分ちで好きにやるんです」

「慎さんお酒強そうだもんねぇ」
「いえいえ、たしなむ程度で。ちなみにドイツのハンブルク生まれのカクテルです。」

「へえ、即興じゃなくて、ちゃんとしたカクテルなんだ。で、今使った銘柄は?」
「マーテルのVSOPです。口中で作るサイドカーとでも言いましょうかね。酸いも甘いも噛み分けて、燃えるようなブランデーでクッと流す。まるで人生のようでございましょう?」
「慎さん色っぽいねぇ」
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