第9話 スノースタイル

文字数 1,643文字

 今のお客さんはお行儀が良くて、きちんとカクテルリストから選んでくれる。しかし、あの当時はリストを無視してオーダーが入った。その(たび)に右往左往したものだった。

 少ない給料をはたいてカクテルブックを買い込み、寝る間を惜しんで覚えていった。一年と経たぬ間に数百に及ぶレシピを頭に叩き込んだ。

 メジャーなカクテルとそうでないものの区別もつかない頃で、ひどく効率の悪いものだったし、今考えれば無駄なことをしたとも思う。

 若輩者は、たくさんのレシピを知っていることがいいバーテンダーになる条件だと思いこんでいた。

 渡辺という名だった師匠に向けて、一度も呼べるはずもなかった名前を呼び掛けてみる夜もある。ナベさん、自分なりのシェイクを作り上げましたよ、あなたと瓜二つのシェイクをね、と。

 子にとって親が生涯親であるように、弟子にとって師匠は生涯越えることのできない存在なのだろう。

『先週さ、うっかりナベさんの休みの日に来ちゃったんだよ。そうそう水曜日。でもまぁ新藤さんがいるからいいかぁって腰を下ろしてさ。するとさ、シェイクの音が聞こえて、ナベさん急きょ出勤してきたんだと思って伸びあがってみたらあの坊やだったよ。
 だからさ、飲みたくもなかったけどマルガリータを作ってもらったよ。塩を敷いた皿にカクテルグラスを逆さまにカパッと伏せてチョチョンと叩いていっちょ上がり、は、やらなかった』



  それから声を潜める。『ナベさんと新藤さんみたいに、縁を回すようにして丁寧に塩を付けていった。それから訊かれたよ。縁に全部付けますかって。これまた上等な質問だったね。だから全部山盛りに付けてくれって言ったら真剣に悩んでた。あの子には、これから冗談のセンスも必要になるだろうね。
 しかしよく育てたね。新藤さんもいいけど、あの子はいい。音で分かる。いいバーテンダーになるよ』常連さんの言葉に、師匠がはにかむように微笑んだ顔が忘れられない。

 今は結晶が大きくマイルドで、ミネラルを多く含むマルガリータソルトを使うが、あの当時は精製塩だったため飲み口を一か所空けたりしたものだった。

 バースプーンには右巻きの螺旋がある。それが手首だけでスプーンを回すためについているのだということは比較的早く分かる。バースプーンの背をグラスの内側に這わせて回転させると、やがて回り始める。ねじれが教えてくれると言った方がいいのかもしれない。左利き用には左巻きのバースプーンが存在するのはそのためだ。しかし、的確なシェイクへの道は近くはない。

 ステアに対する師匠の教えはこうだった。
『手首をくッと突き上げる感じだ。カウンターが低ければ腕と真っすぐの感じでいい。そして手首を支点に回せ。例えれば、お茶を点てるようにだ。指で押すとか引くとか一切気にしなくても親指と人差し指の付け根でスプーンは勝手に回ってくれる。これが一番美しいステアだと僕は信じている。棚橋、時間と情熱がお前を育ててくれるはずだ』

 ご夫婦がじっと見つめる中でシェイクを始める。振りに合わせて肘をリズミカルに動かす。この店はリキュール、スピリッツともに常温。使う材料と指先に伝わる冷たさでシェイクの回数はおのずと決まってくる。これは短めに15回ぐらいで充分だろう。

 あぁ、いい音だこと。小気味のいい音ってきっとこういうのを指すのね。それにあの細いお髭すてきね、クラーク・ゲーブルみたい。ほら、風と共に去りぬのクラーク・ゲーブルよ。奥さんの声がする。



 こちらに聞こえていないつもりの自分の話は気恥ずかしい。

 タンブラーに移し、ウィルキンソンの炭酸を満たす。軽くビルドしてレモンスライスとマラスキーノチェリーを添え、カウンターに乗せた。
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み