第6話 初恋フィズ

文字数 916文字

 案内をされてカウンター席に腰を下ろしたのは、小柄で細身の老夫婦だった。
 ちょっと首をかしげて案内係を見ると、指で丸を作った。ここでいいのだという意味だろう。

「ようこそ、いらっしゃいませ」私は頭を下げた。
「ボックス席の方がよろしいんじゃないですか? ステージもよく見えますし」念のために訊いてみた。

「いえ、こちらをお願いしたんです」
「そうですか」
 ボックス席が満席の時は数人のグループ客が案内されたりもするが、ここに座るのは、ジャズと一人酒を楽しむ常連客か、馴染みのカップルが多かった。

「いえね、ここには以前お邪魔したことがあるんです。そのときに、遠目でしたがあなたをお見かけしたんですよ」

 確かにカウンターバーは、ステージから一番遠い場所にある。カウンターの上で両手を組み合わせたご主人の目は、(いく)ばくかの期待を込めたものだった。



「私を、ですか」
「はい。訊いてみたいことがありましてね、それで今夜は来たのです。いらっしゃってよかった」
「私にですか? はい、何なりと」私は背筋を伸ばした。

「初恋フィズって、ご存じではないですか」ご主人は隣に座る奥さんの方を見る。
「ずいぶん昔に飲んだことがあるんですよ」奥さんは少しだけ体を前に寄せた。
「あぁ、なるほど」

「どこのお店で訊いても知っている人がいないんです」ご主人が言葉を引き取る。
「で、キャリアのありそうなあなたなら、ご存じじゃないだろうかと思いましてね。いい年をして恥ずかしながら今夜来てみた次第です」

「そうでしたか。それはよくおいでくださいました。そうですねえ……私自身ご注文を受けたことも、提供したこともございませんが、知っております」
「そうですか!」
「ああ、やっぱりここに来て正解だったわね」夫婦は砂漠にオアシスでも見つけたように、安堵と喜びの笑みを浮かべた。

「それを、今作れますか」
「はい、おひとつでよろしいですか」
「ついでに私も飲んでみたいので」ご主人はちょっと恥ずかしそうに指を二本立てた。

「かしこまりました」
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