第13話 レシピの違い

文字数 1,630文字

 いつものように、観客の酔いが伝わってくるような熱いステージだった。足元の紙袋からそっと取り出したものを手に彼がステージに向かって歩いていったのは、スポットライトに照らされたみずきさんが歌っていたあの日だった。このカウンターで初めてマティーニを頼んだ夜。

「オリーブを別添えで三粒。レモンピールはいりません」と。

 みずきさんはちらりと彼を見ただけで歌い続けた。しかし彼は歩みを止めない。それも両手を後ろに隠している。みずきさんの目が彼を捉えて離さなくなった。



 このひと、なんだ。彼女の目に少しの怯えの色が浮かんだ。しかし、こちら側からは丸見えになっていた。

 スカシユリ、オンシジューム、バラ、トルコキキョウ、ヒペリカム、ドラセナ、ガーベラ……。
 彼が後ろ手に持っていたものが、小ぶりながらも色とりどりの花束だったのが。

 それをみずきさんの足元にそっと置き、律儀そうにひとつ頭を下げた彼は踵を返した。ありがと、小さな声をマイクが拾い、彼女もしゃがみ込み花束を胸に抱いた。

 歌の邪魔をせぬように手渡ししなかった彼にも好感が持てたし、いつもは絶対にしない、スタンドからマイクを外すという行為をしてまでそれを手に取ったみずきさんも、初めて目にしたシロツメクサの花冠に目を輝かせる少女のようで微笑みを誘った。惜しむらくは、彼がみずきさんのその無暗にかわいらしい表情を見逃したことだ。



 彼と立ち入った話をしたことはない。なぜなら、ニコラシカの常連客のように私を呼ぶことはなく、手近のバーテンダーにオーダーをするからだ。

「さっき出したのさぁ」若い男が声を掛けてきた。

「間違えたんでしょ?」鼻の横が嫌味に歪んでいる。バースプーン一杯のガムシロップを加えたもので良かったようだ。ガムシロップ無しのドライなものを好む客もいるから一瞬迷ってしまったが、そこまで訊いてもろくな返事は返ってこないだろうと判断した。

「いえ、そういうわけでは……しかし確認しなかったわたくしの責任です」わざと確かめなかったのだが、この場合、あえて力任せに地雷を踏んだというべきか。

「男らしくないってば、そういうの。責任とか言いながら、そういうわけではないとかさ、回りくどいことしてないで、ちゃんと謝ればすむ話でしょ」

 チーフ。若いバーテンダーが軽く腰に手を当てて肩口に身を寄せてきた。事情は飲み込んだから代わりましょう、という意味だろう。それを頷きで制した。カウンター越しに横暴な客の胸倉を掴んだことがある若い頃の私ほどではないにしろ、このバーテンダーもかなり気の強い男だ。

 口が堅いこと、約束は守ること、ひとの陰口は叩かぬこと。物事に動じないこと、己の非は即座に認めて謝ること、女性には優しくあること。守るべきものには己の命を懸けること。
 男らしいとはそういうものだと、この若者はたぶん知らない。指切りげんまんは本気で針千本飲む気でなければしてはならないことを。

「大変失礼をいたしました」頭を下げた。
「最初からそうすればいいだけの話だよ。あんたプロなんでしよ? それで金もらって飯食ってんでしょ? 俺だって面倒くさいこと言いたくはないよ、いい歳したじいさんにさ」

 前に出ようとするバーテンダーを手で制して小さく首を振った。若い男が挑発的にバーテンダーを睨んだ。と今度は、カウンターの下でバーテンダーが私の手首をつかむ番だった。気配を感じたようだ。私もまだまだ未熟者。恥じて苦笑いでごまかす。

「慎さん!」堪らずといった声がした。ニコラシカの客だ。
「言ってあげなよ。でないとわからないよ!」
 だからといって、面と向かって客の非を唱えられるはずもないのが客商売。
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